伊勢崎城、最後の遺構 投稿者:鳩ぽっぽ 投稿日:2015/01/07(Wed) 23:25 No.2021 丸男さん、今年もどうぞよろしくお願いします♪ さっそくいつも古い話題で恐縮ですが、Go!いせさきさんで何年か前に、「中心市街地で探した自然・おなべっ川沿いの風景」という興味深い記事がありました。URLはこちらです。 http://www.go-isesaki.com/green_in_city_center.html この記事の中に「この川は、その昔「おなべっ川」と呼ばれ、橋の名は「城北橋」。上を通る道は明治時代、伊勢崎陣屋と太田村(後に安堀村、波志江村と合併し三郷村となる)とをつなぐ「廓新道」として造られました。「城北」と言う由来を考えると、この当時は伊勢崎城(赤石城)の城跡が残っていたのかも知れません。」といった説明がありました。 この説明の後半が、さすが丸男さんの勘の鋭いところで、戦前までは確かにこの付近に伊勢崎城のまとまった遺構が残ってました。 昨年は場所をはっきり特定できるまでに至りませんでしたが、先日、図書館でいい資料が見つかってかなり解ってきましたので、是非この場をお借りして報告させて頂きます。 まずは、添付した地図をご覧ください。この地図は恐らく歴史学者の山崎一氏の縄張り図をもとに、また現在の道路や建物の位置は伊勢崎景観情報サイト「伊勢崎美尋」さんの地図を参考に作成してます。 赤の線、印が現在の道路や建物を表してます。おなべっ川の「城北橋」は曲輪町県営住宅(@の建物)の東側の道路「廓新道」をちょっと(約50メートル)北に進んだ所です。なお、おなべっ川は中世にあった赤石城の堀だったようです。 伊勢崎城(陣屋)最後の遺構は、、県営住宅(@の建物)南、わずかに雁行状の小さい交差点の所から、伊勢崎ハイツ(母子寮Dの建物)の辺りにかけてありました。 現在、伊勢崎ハイツ(母子寮Dの建物)になっている所から「廓新道」にかけて、戦前までは緑色で記したように東西に渡って小高い土塁が残っていたそうです。 また、その土塁に沿って外堀の一部が青く記したように蓮池となって残ってました。その蓮池の畔には、クリーム色で記した「避病院」という町営の伝染病院があったということでした。その病院の跡地には、昭和の時代までは老人ホームが残っていたように思います。 土塁と外堀はかつて「第二公園」という(華蔵寺公園が第一で、こちらは第二のようです)丘にベンチがある程度の小さな憩いの場になってましたが、昭和17年頃に食糧増産の耕地造りのために、土塁を崩して蓮池を埋めてしまったそうです。 戦後はカスリン台風の大洪水に被災した人々の住居(水害住宅と呼ばれた)をここに建てたという記録もありました。 伊勢崎城(陣屋)最後の遺構がなくなってしまったのは非常に残念ですが、歴史遺産を残すより、町民が目の前の被災者を救おうとして取った行動だったので、それは高く評価したいと思います。 ちなみに、小さな交差点から「廓新道」を南下するとCのあたりが石井皮膚科さん。北小学校の敷地に本丸があったのでしょう。Aが、あかいし保育園さん(旧第一保育所、その前はたしか市営プール)、Bが延命寺です。あかいし保育園から延命寺にかけての道路はいまでも雁行していて風情ありますね。 添付:2021.jpg (24KB) Re: 伊勢崎城、最後の遺構 - 丸男 2015/01/08(Thu) 17:31 No.2022
鳩ぽっぽさん、こちらこそ、今年もよろしくお願いします。 伊勢崎陣屋と太田村(後に安堀村、波志江村と合併し三郷村となる)とをつなぐ「廓新道」・・・ 特に「おなべっ川」周辺はあのアップダウンと狭い住宅街とが、 古の時代にタイムスリップしたみたいな感じで、時々足を運びます。 この正月休みにも出かけて、適当に住宅地に入ってしまって、行き止まりで戻ったりしました(汗;)。 伊勢崎陣屋跡と現在の地図を重ねた図面も持っているのですが、紙媒体なのでスキャンしないとアップできないので、悪しからず。 後で作成した本人(Sさん)にデジタルデータから直接PDFにしてくれるように頼んでみましょう。 数年前に、伊勢崎陣屋の遺構巡りをした時の資料です。 今でも、 ●蓋つき用水路=堀の跡 ●郵便局本局駐車場北側の段差=土塁の間の大手門 ●赤レンガ塀が残るゴストー北側=旧大手門への通路 ●群銀伊勢崎西支店駐車場南側の段差=お濠の段差(予測) 等々、何ヶ所かで確認できます。 でも、県営住宅や伊勢崎ハイツ付近に土塁が残っていたこと、知りませんでした。 Re: 伊勢崎城、最後の遺構 - 鳩ぽっぽ 2015/01/08(Thu) 22:11 No.2023 丸男さん、貴重なアドバイスをありがとうございます。 伊勢崎景観情報サイトの「伊勢崎美尋」さん(Sさん?)作成の合成地図では、伊勢崎ハイツ(母子寮)の建物と緑色で示した土塁の位置が見事に一致しているのでさすがだと思いました!本当にいい仕事をされてます。ただ残念なのはサイトでは地図の画像がぼやけているので、シャープな画像で見てみたいですね。また、こちらのサイトでは外堀を「内堀」という解釈の仕方です。 http://www3.ocn.ne.jp/~sato4415/isessiro.html 県営住宅から南に50メートルに位置し、現在の伊勢崎ハイツ(母子寮)から「廓新道」にかけてあった土塁ですが、この土塁を崩している昭和17年頃の写真が古い写真集にありました。キャプションに次のように書かれてます。 「その堤を崩して蓮池を埋め、食糧増産の一助に(そこを整地して馬鈴薯づくりを)しようというので駆り出された泉町(現、曲輪町)壮年団の人々。背後の煙突は徳江製糸工場のものである。」 画像とキャプションは橋田友治 編「ふるさとの想い出写真集 伊勢崎」のものです。 徳江製糸工場は現在の図書館の北にあったので、この写真は堀側から南を向いて撮影したものと思われます。 Re: 伊勢崎城、最後の遺構 - 鳩ぽっぽ 2015/01/08(Thu) 22:29 No.2024 こちらは逆に、土塁側から外堀を撮影したものです。このように当時は外堀の一部が蓮池となって残ってました。堀の向こう岸に見えるのが、避病院(ひびょういん)と呼ばれた伝染病院です。 昔の伊勢崎の子供たちは夏になると、広瀬川のタネンブチ(太郎右衛門渕)に水浴びに行くのに、この伝染病院の前を急いで駆け抜けたそうです。 避病院とは明治時代に造られた日本の伝染病専門病院で、町の郊外に多く造られコレラ等の患者を隔離したようです。伊勢崎には明治34年に、昨日の地図でクリーム色で記した辺り(昭和時代に老人ホームのあった場所)に造られました。 Re: 伊勢崎城、最後の遺構 - 丸男 2015/01/09(Fri) 12:01 No.2025 鳩ぽっぽさん、SさんはそのSさんです(^o^)。 笑点の昇太じゃありませんが、お城の趣味をお持ちです。 鳩ぽっぽさんの写真、土塁や蓮池が写っているのが貴重ですね。 子どもたちが伝染病院の前を急いで駆け抜けたと言うエピソードもイメージが湧いて、懐かしいです。 病院を避病院(ひびょういん)と呼んだことも世相を反映しているようで、感慨深いです。 旧東町役場前の池を「病院沼」と呼んでいたことなどを思い出します。 Re: 伊勢崎城、最後の遺構 - 鳩ぽっぽ 2015/01/10(Sat) 15:50 No.2026 丸男さん、お返事ありがとうございます。 伊勢崎陣屋の土塁と堀のあった辺りの昔の航空写真を、国土地理院の例のサイトで探してみました。写真は1946年(昭和21年)10月の米軍撮影のものです。 この写真はちょっと曲がって撮れてますが、右下に北国民学校(北小)の敷地、その上に近代的な市民プール(現、あかいし保育園)がよくわかります。 また画面中央よりやや左に目立った沼があり、最初はこれが外堀か!と思いましたが、この沼はかつて「小池」と呼ばれ、沼のあった所に現在の曲輪町県営住宅が建っています。 沼の北に城北橋、一方、沼の南の画像中央の白くなっている所(ピストルの弾のような形)が、伊勢崎陣屋の土塁と堀のあった所です。土塁のあった所には、まだ緑が残っていたことがうかがえます。 ピストルの弾の頭(道路がカーブしている)の所に寄棟の屋根が確認できますが、それが先日の避病院の建物と思われます。 ということで、避病院は敷地の南北を堀と沼地に囲まれ、西は崖になっているという地形に建てられたことになり、伊勢崎町がこの地を選んだ理由も解ってきました。 19世紀の終わり、コレラの大流行で日本では10数万人以上の死者を出し、明治政府は日本各地で避病院の設置を進め、当時は治療が不可能だった患者の収容・隔離体制が整えられたようです。 Re: 伊勢崎城、最後の遺構 - 鳩ぽっぽ 2015/01/10(Sat) 16:07 No.2027 こちらの画像は、土塁と堀のあった辺りのグーグルマップによる現代の風景です。 中央の駐車場や洋風民家のある辺りが堀のあった所、左端の民家のすぐ裏に伊勢崎ハイツ(母子寮)があり土塁があった場所と思われます。 また画像右端の樹木の茂みに避病院があったのでしょう。避病院のあった所は昭和40年代頃までは赤い屋根の老人ホームになってました。 Re: 伊勢崎城、最後の遺構 - 丸男 2015/01/10(Sat) 17:38 No.2028 鳩ぽっぽさん、土塁が残される写真、よく見つかりましたね(@_@)。 県営住宅の位置の蓮池もはっきりと分かりますね。 今日も伊勢崎駅から「同じゅ院」の前の路地を通り、県営住宅の北側を自転車で走りましたが あの辺、今でもアップダウンが残り、謎深い場所です。 市民プールと言えば、当時、三郷小学校や中学校にはプールがなかったため、水泳教室はこのプールまで通いました。 ひと夏に1回か2回程度だったため、ほとんどトレーニングにはなりませんでしたが。 ・・・ところで、昨日、Sさんと会いまして、陣屋と現在の地図を重ねた高密度のPDFを頼んでおきました。 届きましたら、何らかの方法で紹介します。 Re: 伊勢崎城、最後の遺構 - 鳩ぽっぽ 2015/01/17(Sat) 23:01 No.2048 丸男さん、小さな橋シリーズ、稲荷町の韮川に架かる「城東橋」ですが、かつては橋の西側に確かに「今村城」といった城がありました。 城東橋を渡ってすぐの十時路を左折して進んだ集落の中に碑があるのですが、わかりずらい所なので、よかったらこちらの方のブログ「城郭放浪記」さんをご覧ください。 http://www.hb.pei.jp/shiro/kouzuke/imamura-jyo/ 今村城は、中世時代に現在の伊勢崎市西南部(かつての那波郡)を中心に興亡した武家の名門、那波氏の那波宗俊(なわ むねとし)によって築城されたようです。 宗俊は今村城の他に、名和小学校付近の那波城(堀口城)、同聚院辺りにあった赤石城を拠点として、関東に出陣した長尾景虎(謙信)に対抗しましたが、上杉軍により次々落城して那波氏は没落してゆきます。 Re: 伊勢崎城、最後の遺構 - 丸男 2015/01/17(Sat) 23:24 No.2049 鳩ぽっぽさん、今村城でしたか。 私は今村城は倭文神社の北辺りとずっと思い込んでいたので、 候補者から外してしまっていました(><)。 謎が解けました。ありがとうございました。 |
・画像は管理者が許可するまで「COMING SOON」のアイコンが表示されます。