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例幣使街道を行く 右赤城 投稿者:鳩ぽっぽ 投稿日:2013/12/08(Sun) 18:24 No.1115
丸男さん、こんばんは。今日はひさしぶりに近くの史跡巡りに出掛けて、知る人ぞ知る「右赤城」の地点に初めて行ってきました。
国道354線沿いの焼きまんじゅうのおいしい忠治茶屋から、境町方面に向かって50メートルちょっとの所で旧例幣使街道は何故か西に折れ、「ひしゃく型」に迂回していたようですね。
江戸時代、京都から日光に向かう例幣使の行列は上州に入り、ずっと左側に見えていた赤城山でしたが、ここでは反対側の右側に見えるようになるので、ここから見る赤城山は「右赤城」と呼ばれてました。
勅使たちもここで籠を停めさせ赤城山を眺め、「これが東(あづま)の右赤城かいな〜。」と、「右赤城」は上方のお公家さんの間でも知られていたそうです。
東海道にある「左富士」と同じように、例幣使街道の名所だったようですね。
またまた、街道は何故わざわざここで西に折れ迂回しなくてはならなかったのか?という謎がありますが、地元出身の方によると近くを蛇行して流れる広瀬川の流れが、当時は街道まで迫っていたため川の流れをよけて迂回したということでした。
この辺り旧上蓮沼、下蓮沼地域はかつては利根川も流れていたわけで、ここも広瀬川と旧利根川にはさまれた中州のような場所でした。
写真は今日の「右赤城と例幣使街道」です。例幣使の行列は写真の右から左へと向かい、この地点からだけ進行方向の右側に赤城山が見えました。

添付:1115.jpg (167KB)
Re: 例幣使街道を行く 道標 - 鳩ぽっぽ 2013/12/09(Mon) 00:01 No.1116
右赤城の先で街道は左に折れ、県道296号線の道路に出た所の角に、往時を偲ぶ道標が残ってます。
文字は風化して写真では見えにくいのですが、左側の日の当たっている面に「ほ」の字がわかるでしょうか「左 ほん志やう(本庄)」とあり、右側の影の面に「東 日光道」、裏側に「右 五りやう」と彫られています。
市内にも他に四中の入口や、大正寺町の豊武神社内に道標が残ってます。
江戸時代の街道や道標が意外と原型に近い形で残されており、ぜひ後の世代にも残したい貴重な遺産ですね!
周りに高い建物も少ないので「右赤城」が見られるのも、今のうちがチャンスかもしれません。

またこの道標のある辺りは旧下蓮沼村の集落となっており、暴れ川利根川や広瀬川が造った自然堤防と呼ばれる微高地上に集落が集まっているのがわかります。
反対に水田が長く連なっている地帯は、かつて利根川が流れていた痕跡なのだそうで興味深い地域です。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 丸男 2013/12/09(Mon) 12:07 No.1117
鳩ぽっぽ さん、こんにちは。右赤城の投稿、ありがとうございます。
偶然です、私も昨日は古道巡りでした。
と言っても、私は”あずま道”でしたが。

以前、鳩ぽっぽさんに右赤城の話題を投稿いただき、
その時に、その辺を詳しく掲載している地元出身の方のブログを拝見し、
私もいつか右赤城を確認しに行かなくては・・・と思った次第です。
赤城山が美しく見える冬の間に出かけなくっちゃね。└(^o^)┐


Re: 例幣使街道を行く 乳母の懐 - 鳩ぽっぽ 2013/12/10(Tue) 21:12 No.1118
丸男さん、お返事ありがとうございます。
じゃ日曜日に、伊勢崎市北部では丸男さんが「あずま道」を、南部では鳩ぽっぽが「例幣使道」を古道巡りしてたんですね〜。
「六道の道標とあずま道」の記事もじっくり拝見致しました!
Go!いせさきさんの「日光例幣使道」のコーナーもとても充実していて楽しいですね。

先日は右赤城に行った後、境の下武士に残る旧道を訪ねてみました。
武士橋を渡りすぐの信号を左折し、またすぐの細い道を右折すると、そこからお車ですと対向車が来るとすれ違いもやっとの道幅で500メートル位の距離に渡って古い街道が残っています。
道の両脇は普通の古い民家になってますが、道路が拡張されてないため街道らしい面影がよく残されてます。
写真はその街道沿いにある古く八海山が祀られた塚ですが、例幣使街道に唯一現存する一里塚とも言われてます。
村の古老の言い伝えで、武士村との境まで勅使を出迎えに来ていた境宿の町役人が、輿にゆられ居眠りをしていた勅使を見て、「まるで乳母の懐(うばのふところ)に抱かれていたようじゃの〜」と言ったユーモラスなエピソードが伝わっているそうです。
そんな勅使ですが・・・実際は普段は貧乏な下級公家が担当していたそうで、例幣使として遣わされた道中ではここぞとばかりに朝廷と幕府の権威を利用して、宿場や人足には暴利をむさぼるようなことが多かったようです。
駕籠が少しでも揺れると、驚くべきは勅使自ら中で駕籠をゆすって時には駕籠から飛び出して、「人足の不調法で駕籠から落とされた、この無礼を幕府に訴える」と主張し示談金をせしめたり、これが「強請(ゆすり)」という言葉の語源になったということです。
駕籠を「ゆすった」から「ゆすり」なのでしょう。
年に一度、春の例幣使のみやびな大行列を想像してましたが、歴史の裏舞台は、いつの世も権力やお金の話が絡んでくるといささか幻滅したり、それがまた面白かったりします。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 丸男 2013/12/11(Wed) 08:32 No.1119
鳩ぽっぽ さん、古道に関する”記憶”巡りは色々な好奇心を刺激してくれて楽しいですね(^o^)。
「例幣使道」のページも右赤城や、旧境町内の織間本陣以外の場所など、更に充実させたいのですが、なかなかはかどりません。

例幣使が実は裏で汚れたことをしていたこと、私も聞いたり調べたりしたことがあります。
東照宮に前年奉納した数々の品々を下げ、それを細かく分けて、
帰路に立ち寄ったあちこちで高額な値段で売りさばいてお金儲けしたと言う話を聞いたことがあります。
「境風土記」などにも例幣使の非道について記されていて面白いです。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 鳩ぽっぽ 2013/12/18(Wed) 21:40 No.1120
丸男さん、右赤城にお出掛けになれてよかったですね。
「なぜにこの地で例幣使道が西に向かったか」といったミステリーは、赤城山が右側に見えること以上に興味をそそりますね。
地元ご出身の方、トクチャンのブログによれば、「それにはワケがあります。近くを流れる広瀬川が昔はもっと集落寄りを流れていました。僕が住んでた集落は広瀬川と利根川に挟まれた中洲のような場所にあります。集落はこの広瀬川が形成した自然堤防の微高地にあります。広瀬川の蛇行に沿って例幣使街道も西へと向きを変えました。」と記されてます。
トクチャンがお住まいになっていた下蓮沼の集落は、現在、道標のある辺りから県道と国道354線が交差するあたりにかけてのようです。

> 当時の地図や、広瀬川河川改修、国道354号の工事資料などが見つかれば、裏付け資料になるのですが。
以下のURLは伊勢崎の古い治水地形分類図です。以前も紹介させて頂いたものですがよかったらご覧ください。
http://www1.gsi.go.jp/geowww/themap/view/mapview.php?type=lcmfc&dis=kantou1&name=isesaki&size=100&rc=22&xy=20
こちらの地図では例幣使道が西へと迂回する地帯は、薄緑色の氾濫平野という分類になってます。
氾濫平野とは、「洪水時に流水が河道から溢流して氾濫する範囲の低地で、地形的には平坦。上流から運搬されてきた泥土が沈降して軟弱層を形成する。」ということでした。(地盤調査用語集さんより引用)
また氾濫平野は「洪水などで溢れた氾濫水が河川へ排水されず、長期間滞水してできた非常に軟弱な湿地。」になることも多いようです。
ということは、この地帯も以前、川であったという可能性も大ですね。というより、この付近には利根川の旧河道「七分川」も流れていたし、暴れ川坂東太郎のことを思えば川であったというのも当たり前のことですね。
私としては例幣使道が整備された江戸時代初期、右赤城の東の地帯は街道を造成できない広瀬川(或いは利根川)の残した沼地か湿地であったという説を立てたいと思います。下蓮沼というくらいだから、きっと沼地も多かったのでしょう。
治水地形分類図を見ると国道354号からの旧街道分岐点〜右赤城にかけての街道が、薄緑色の氾濫平野と薄赤色の自然堤防の際とほぼ一致するんじゃないでしょうか。ぜひ地図を照合してみてください。
また、現在の豊東橋辺りから始まってセーブオンの辺りを通り、カーブして本流に戻る細い旧河道が見られるのもおもしろいです。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 丸男 2013/12/19(Thu) 10:35 No.1121
鳩ぽっぽさん 、右赤城、やっと掲載できました。
鳩ぽっぽさんの投稿に刺激されて、いつか行かなくっちゃと思ってたところです。
ところが、記事編集中に、鳩ぽっぽさんが写真を掲載してくれた道標を確認してくるのを忘れたことに気が付いて(><)
また遠からず出かけてみます。
豊武神社内内の道標も一緒に撮って来ます。
四中のところの道標は道路脇にあったので撮って来たのですが。こちらは近々掲載します。

それと、治水地形分類図のウェブサイトの紹介、ありがとうございました。
良く見つけましたね〜(@_@)。
非常に面白いです。
後で、現在の地形図を重ねるなど、色々と挑戦してみます。
まとまりましたら、また掲載します。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 和@ 2013/12/21(Sat) 16:28 No.1122
はじめまして。興味深い内容でいつも楽しみにしています。
こんなページを見つけました。
http://habs.dc.affrc.go.jp/index.html
管理人さんの推測通りと思われます。

こういった昔の地図をみるとその当時の人々の生活とか思いを馳せてしまいます。
今も使っている道とか色々地図を見ていると楽しくなってきます。
これからも連載、楽しみにしています。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 丸男 2013/12/21(Sat) 19:37 No.1123
和@さん、こんにちは。
当サイトをご覧いただいているとのこと、ありがとうございます。
また、下蓮沼村付近で西へ向かった例幣使道の根拠となる地図サイトの紹介、ありがとうございます。
早速に確認してみました。
現在地の南へ蛇行する広瀬川の位置や、それを避けるように例幣使道が通っていることが
全て地図になっていて、感動です(@_@)。

これから右赤城のページの方に追記したいと思います。ありがとうございました。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 鳩ぽっぽ 2013/12/21(Sat) 21:35 No.1124
丸男さん、和@さん、こんばんは。
「なぜに例幣使道は西へ向かったか?」の素晴らしいレポート、ありがとうございます。
例幣使道は確かに、氾濫平野が狭い場所を通過してますね。これは気が付きませんでした。
大雨等で川が氾濫した際に氾濫平野が冠水し、こうした所を向こう岸に渡ろうという時に(或いは橋を架けるという時に)なるべく狭い場所を通るのが自然のルートですね。さすが橋梁設計のプロの視点だと思いました!
治水地形分類図の最初の測量は昭和4年ということなので、江戸時代初期の地形とはある程度の変化があるでしょうが参考にして頂いて良かったです。
また江戸時代初期、右赤城付近に人工的な堤防があったのか? それとも自然堤防(治水地形分類図の薄赤色の地帯)だけだったのか?それによってもルートが違ってくるように思いました。
氾濫平野を通過するのに、そこに木道のようなものを架けたか?或いは、そこだけ人口堤防を築き、街道はその堤防上を通っていたのか?・・・とか勝手に想像してみました。
和@さんが紹介してくださった歴史的地図はとても興味深い!のですが、なぜかこのPCでは地図が真っ白になってしまって表示されません。
KMZデータというのは普通のブラウザでは出ないのでしょうか? それとも、セキュリティーソフトが邪魔しているのでしょうか?
地図を直接見られないので、丸男さんの追記を期待してます!


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 丸男 2013/12/21(Sat) 22:06 No.1125
鳩ぽっさん、お待たせしました。
和@さんに紹介いただいた地図を参照して、また記事を追加してみました(^o^)。

皆さんのお陰で、楽しい記事になりました。大変ありがとうございました。
また史跡記事などを書く時には、よろしくお願いしますね。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 和@ 2013/12/22(Sun) 15:20 No.1126
丸男さんこんにちは。
追加記事にしていただけて、とてもうれしいです♪
余計なこと書いちゃったかなぁ?と反省しておりましたが、
なにやらお役に立てたようで、うれしいです。
まだ両毛線もできていないこの頃の人たちの生活とか、道の往来とか
色々思いを馳せてしまいます。とりとめないお話になりそうですが、
また書き込ませてください。ありがとうございます。では

鳩ぽっぽさん
シンプル版ですが、こちらは見れませんか?
http://habs.dc.affrc.go.jp/rapid16/index.html


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 鳩ぽっぽ 2013/12/22(Sun) 16:55 No.1127
丸男さん、和@さん、こんにちは。
シンプル版の地図のご案内をありがとうございます。こちらは見られますが、残念ながら古地図はまだ見れません。近いうちにPCのメンテ等をしてみたいと思います。
一部、丸男さんが掲載してくださった下蓮沼村の部分を拝見して、実に興味深い地図なので驚いています!
今日は午後にさっそく現地に行って、「明治前期の低湿地」と「明治13年から明治19年にかけて作成された地図」を参考に、当時、広瀬川が流れていた流路を現地で確認してきました。
当時の広瀬川の流れは恐らくセーブオンの敷地を通り、弧を描いて現在の流れの方に戻るわけですが、セーブオンの裏〜東方にある細い道路がその流れの痕跡に沿うように、三日月状に弧を描いているのがおもしろいです。
写真はセーブオンの東方150メートル辺りから西を向いて撮影したものですが、民家の間にある空き地や畑がどことなくここに川が流れていたような風情を残してます。
「明治前期の低湿地」によれば、実際の流れは右側の民家のある辺りのようです。また、「明治13年から明治19年にかけて作成された地図」をよく見ると、流れはそれより多少、南側にずれ下蓮沼の集落に近い位置を流れていたように見えます。その場合、写真のように(下流側から見て)手前の空き地〜奥の畑、公園広場〜更にその奥にかろうじて看板が見えるセーブオンに至るのが、当時の流路じゃないかと考えてます。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 鳩ぽっぽ 2013/12/22(Sun) 18:53 No.1128
かつての広瀬川が流れていた流路と、それより一段高い自然堤防上にできたはずの下蓮沼の集落ですが、その段差を今日、現地で確認することはできませんでした。
しかし、かつてあったはずの段差のほぼ延長線上に、354号線を隔てた道路の西側には段差を確認できました。
丸男さんの作成してくださった図3の治水地形分類図で言えば「下蓮町」とある「下」の字の斜め下にyの字に似た桑畑のマークがありますが、そこの薄緑色の氾濫平野のエリアと、南側の赤いドットになっている自然堤防のエリアの際(きわ)に明らかに段差が残ってます。
写真は東から西に向かってその段差を撮影したものですが、向かって左の石仏の背後は竹藪になっていてこんもり高くなってます。道の右側は一段低くなってます。
右赤城で例幣使道が西へ向かったも、この一段低くなっているエリアが当時は葦の茂るような湿地等の御足もと悪い状態で、それをできるだけ回避してわざわざ街道が迂回したものと想像します。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 丸男 2013/12/22(Sun) 22:27 No.1129
和@さん、こんばんは。
余計なことどころか、本当にいいサイトを教えていただき、感謝しています。
今までに掲載した東山道(あずま道)や五目牛の牛石など、
昔の道と参照したい場所が他にもたくさんあるので、
以前の記事も更新したい気持ちでウズウズしています。└(^o^)┐


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 丸男 2013/12/22(Sun) 22:34 No.1130
鳩ぽっぽ さん、本当に偶然です(@_@)
「左ほん志やう」の道標を撮るために、私も今日の午後出かけました。
コンビニの東付近から公園にかけて自転車で一回りしました。
上蓮交差点の北側に「豊東橋架設記念碑」があって撮ったりもしました。
昔の河道探し、後で鳩ぽっぽさんの投稿記事を現地と重ねながらじっくり拝見させていただきます。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 和@ 2013/12/23(Mon) 20:23 No.1131
丸男さん、こんばんわ。
お役に立てたようで、うれしいです。
また、こんな航空写真を見ていて、田んぼのあぜ道から、広瀬川の流れがわかるような
気がしてきました。
昭和49年と比較的最近ですが。
http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/74/ckt-74-18/c38/ckt-74-18_c38_35.jpg
ポータルはここです。
http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WF_AirTop.cgi?DT=n&IT=p
なんか、しつこくなっちゃってすみません(汗)


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 丸男 2013/12/23(Mon) 23:11 No.1132
和@さん、この航空写真、凄いですね!(@_@)
モロに当時の河川位置が分かるんですね。
その部分だけクリッピングしてみました。
まずは元画像。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 丸男 2013/12/23(Mon) 23:16 No.1133
続いて、旧河川位置と思しき場所を赤線で記した地図。
国道354を南側に越えた位置の曲線が何なのか謎が残りますが。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - あおぞら 2013/12/24(Tue) 00:56 No.1134
突然の割り込み、お邪魔しま〜す。
なにやら皆さま、楽しそうですね!ちょっと覗いて見たら、なんか面白そうで・・・。
むか〜し昔の小学生時代、社会の授業で地図を読んだり、地形について学びましたが、
この丸男さんの写真を見て、当時習った“三日月湖”なんて言葉を思い出しました。
ほんとに畑の形・ラインがそのまんまですね!
こうして空から見ると、寧ろ、畑地を突っ切る舗装道が不自然で違和感を覚えました。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 丸男 2013/12/24(Tue) 10:10 No.1135
あおぞらさん、例幣使道と言う歴史的に重要な道路がその痕跡を残していること、
そしてそれを裏付ける資料や現地の地形が見つかること、貴重であるのと同時に楽しいですね(^o^)。
和@さんが見つけてくれた画像を更に良く眺めてみたところ、
国道354号の南側の線昔の河川の位置を示すと思われる線がまた見つかりました。
ちょっと書き加えてみました。
またまた本ページに掲載しなくっちゃね└(^o^)┐


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 丸男 2013/12/24(Tue) 15:48 No.1136
・・・と言うことで、和@さんに紹介いただいた航空写真を元に、またまた記事を追加してしまいました。\(^o^)/
鳩ぽっぽさんが現地で確認した場所もこの画像の中にありますでしょうか。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 和@ 2013/12/24(Tue) 21:48 No.1137
丸男さん、こんばんわ。
ま、日課の御サイトを開いたところ、トップページに見たことある写真があって
びっくりでした!!!またしても記事にしていただきありがとうございます。
自分ではこんなにうまく文章にまとめられないので、読んでいてとてもワクワクしてきました。
と、同時に少しでも参加できてうれしいです♪
実家が上蓮なのでそのうちにジョギングついでに見てこようと思っています。
ありがとうございました。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - しょうちゃん 2013/12/24(Tue) 21:50 No.1138
あおぞらさん
お久振りです。
自分も「お〜」「なるほど」と思うんですが
何せ居住地域から遠方の為、頭の中に地図と現状を考えても一致しなくて
中々踏み込んで行けず見守っているだけです。
自分達の近所も時代をさかのぼると面白い事は有るんでしょうが
まだ、頭に余裕が無くてダメですね。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 鳩ぽっぽ 2013/12/24(Tue) 22:22 No.1139
こんばんは。和@さんの見つけた昭和49年の航空写真は大発見ですね!
田畑の織りなす幾何学模様が、ピカソかキュビズムか? それとも、どこかで見たことあるようなタペストリーのようなのがまずおもしろいです。
というのも、かつての河道と思われる帯状地帯が弧を描き、パッチワークキルトの継ぎはぎ細工のように明らかに違った柄になっているからスゴイです〜。
またまた、354号線を越えたなんと南西側にも綺麗なRを見出した丸男さん、さすがですね!
このR曲線こそ、かつての広瀬川の流れが354号線よりも南西側にはみ出していたことの証拠写真!科学的な裏付けになりそうですね。
すなわち、それを回避せんがために街道は右赤城のコースをとったという・・・想像や言い伝えだけじゃなく、誰が見ても納得できるような形にかなり迫ってきてるんじゃないでしょうか!
先日投稿させて頂いた石仏のある段差の写真は、偶然にもそのR曲線が自然堤防のラインと交わる箇所の風景です。ここに石仏が残っているのも何か訳がありそうですね。
今回の写真は、354号線の位置から撮影した同じ場所です。真ん中の広い畑が航空写真でもよくわかると思います。この写真の中でRのラインは向かって右の畑と雑草の生い茂っている所のきわが畦になっているでしょうか、そこから〜2mくらいの灌木の手前を通って段差のラインと交わっているように思えます。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 鳩ぽっぽ 2013/12/24(Tue) 22:26 No.1140
こちらの写真は、前の写真を反対側からみた光景です。
解りずらいですが、こんどは左側になった灌木の下すぐ向こう側の畦が、Rを描いているように見えないでもないです。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 鳩ぽっぽ 2013/12/25(Wed) 01:36 No.1141
さきほどの写真ですが、説明ですとわかりずらいのでペイントで書きこんでみました。
見苦しい点をお許しください。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 鳩ぽっぽ 2013/12/25(Wed) 01:53 No.1142
>鳩ぽっぽさんが現地で確認した場所もこの画像の中にありますでしょうか。

はい。掲載写真に勝手に書きこんでしまいすみません。先日のコメント1127、セーブオンの東方150メートル辺りで撮った写真は、書き込みの青丸の辺りから、現在の公園広場になっている方向を向いて撮影したものです。
丸男さんも、ここが河道であったと推定されているようで嬉しいです!
昭和49年撮影の航空写真はオリジナルフィルムの画像を拝見すると、カメラはハッセルブラッド。かなり本格的な記録写真のようで、フィルムはリバーサルのコダクローム辺りかな?なんて思ってしまいます。
現代はこういう記録を人工衛星がやってますね。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 丸男 2013/12/25(Wed) 12:19 No.1143
鳩ぽっぽさん、写真撮影位置、良く分かりました。
昔の河川の縁らしい段差が残っているんですね(@_@)。
22日、私も公園(広場)の辺を一回りしていたところでした。
掲載がなかなか捗っていないのですが、公園の西、国道354号脇に
古い豊東橋の架設記念石碑などもあって、是非紹介したいと思っています。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 丸男 2013/12/25(Wed) 16:00 No.1144
和@さん、ご実家が上蓮とのこと、ご近所の古老の方たちの中に
古い豊東橋建設の頃の様子を覚えている人もいるかも知れませんね。
コンビニと上蓮町交差点の中間辺りにある豊東橋架設記念碑によれば、
古い豊東橋は昭和十年六月竣工と刻まれていました。
今から78年前なので、難しいですかね。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 鳩ぽっぽ 2013/12/25(Wed) 19:51 No.1145
丸男さん、たくさん写真を載せて頂いたり、いつもお返事もありがとうございます。
写真は2か所で撮影してますので、混乱を避けるために念のため説明させて頂きます。
22日投稿のカキコNo.1127の写真は、青丸印のA地点から公園広場になっている方向を向いて撮影したものです。
25日投稿のカキコNo.1141の写真は、赤丸印のB地点から昔の河川の縁らしい段差(自然堤防)を撮影したものです。
いささかくどいようですがご確認のほど、どうぞよろしくお願い致します。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 丸男 2013/12/25(Wed) 22:15 No.1146
鳩ぽっぽ さん、大丈夫(^o^)。
No.1141がB地点からの撮影であること、分かってましたよ└(^o^)/。
その場所も現地で見てます。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - にわかTT 2013/12/27(Fri) 21:27 No.1150
スレッドが伸びていて恐縮ですがちょっと失礼します。
例幣使街道、全然詳しくないのですが昔の航空写真があったので紹介します。
「国土変遷アーカイブ」で検索するとヒットすると思います。
問題の右赤城部分の比較写真を抜き出して作ってみました。
丸男さんが今回使っているサイトの写真ほど鮮明な画像はGET出来ませんが、なんとなく分かる写真が無料で見られます。
1947年の河川回りが白っぽいのはカスリン台風水害の爪痕とだと思います。
川筋もずいぶん変わっています。
また、別スレッドにある三郷中学は1948頃にはまふだ無く、山の裏に草競馬場があります。
そのあたりの変遷を見るのも好し、女掘を同定するも好しと言うところでしょうか。
このサイト、すでにご存知でしたら板汚しご容赦ください。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 丸男 2013/12/27(Fri) 22:57 No.1153
にわかTT さん、こんばんは。お久し振りです。
「国土変遷アーカイブ」・・・知りませんでした。
広瀬川の上蓮村付近の1947年の航空写真、素晴らしいです(@_@)。
モロ、古地図のままの流れが写ってますね。
1960年の航空写真も河川敷がそのままの筆で田畑になっていて、
この時代でもまだ十分に古い広瀬川が確認できるので、これも素晴らしいです。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 鳩ぽっぽ 2013/12/27(Fri) 23:08 No.1154
1947年の写真を拝見しました。これはスゴいですね〜。丸男さんが旧河道と推定した所に、ほんとに!水が流れてますね〜〜。
しかも、今の354号線となっている道路すれすれに流れていて、下蓮沼の集落もすれすれ、集落の真裏をかすっているように見えるくらいで・・・
22日に現地で写真を撮っている時は、はたしてここに、ほんとに水が流れていたのだろうか?と半信半疑の気持ちでしたが、今、1947年の記録写真を目の前にしてまるで夢を見ているようです!!
では、すみません。また写真を投稿させて頂きます。
同じ日に撮った、広瀬川旧河道の痕跡(確信を持って!)となる公園広場です。道路の右側が旧下蓮沼の集落。また左側の奥に現在の広瀬川の堤防も少し写ってます。
伊勢崎市のこういった堤防の多くはやはり、1947年(昭和22年)のカスリン台風の大被害の後に造成されたようですね。
おもしろいのは当時の写真の豊東橋?の位置で、現在よりもずいぶん南、集落のすぐ近くに架かっていたようですね。投稿した写真には写ってませんが、今のこの広場の入口のある広場西側の道が橋があった位置なんじゃないかと思います。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - しょうちゃん 2013/12/28(Sat) 00:49 No.1157
にわかTTさん
三郷中の裏山の草競馬の話は聞いた事があります。
親父じゃ無くて、自分知り合いの70歳ぐらいの方からですけどね。
今度親父に聞いて見るかな・・
祖父いや、それ以前からのチャキチャキの波志江人ですから。
まだ本題には突っ込めませんけどね徐々に入って行こうかと


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 和@ 2013/12/28(Sat) 21:13 No.1158
丸男さん、みなさんこんばんわ。
かなり盛り上がってますね。
にわかTTさんの紹介してくださった、「国土変遷アーカイブ」が楽しくて
ずっと見てます。にわかTTさん、ありがとうございます♪
このような地図とか地形の検証って楽しいですね。いつも夜更かしです。
御サイトに参加できてうれしいです。またカキコさせてください。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - トクチャン 2013/12/31(Tue) 00:21 No.1161
はじめまして。トクチャンのブログのトクチャンです。下蓮町の出身です。僕以上に色んな資料で検証されていて驚いてます。さっそくですが、広瀬の河川改修前の流れの外側にも赤い線が引かれてますが、そこは川原だったところだと聞いたことがあります。今度叔父の家に行った時、詳しくそのあたりを聞いてきますね。昔、うちの祖父が紺屋を営んでいたころ、広瀬川の水で染めた糸を洗ってたと聞いてます。もう一つ気になっていることですが、例幣使街道は右赤城のほうから下蓮の上宿にある道標のところで東へ一直線に進みます。国道と県道の下蓮町交差点のあたりを昔は中宿と呼び、そこから集落の終わる下武士との境界で北へ進んでました。そこを下宿と呼びます。古い地図をようくご覧ください。下蓮町の集落の東側でわずかに北へ折れているのが分かりますよね。その道を進んでいくと現在の広瀬川の土手に突き当たりますが、土手下に武士橋の下まで続く道がありました。そこが旧道だと聞いた覚えがあります。昔は境へ行く時に冬場は空っ風を避けるため土手下の旧道を自転車で通りました。
今はたぶん草に覆われているんじゃないでしょうか。僕が子供の頃は菅原神社北側は田んぼでしたが、広瀬川の河原の土で田んぼを埋めて現在の住宅団地ができました。
広瀬川の環境も昔とはだいぶ変わりましたね。一度、下蓮で80才前後の人に聞かれたらいいと思います。私の叔父もちょうど80才です。
まゆドームのところの田んぼは清水田んぼと呼んでいました。清水田んぼの南側の地区を立川(たちかわ)と呼びます。たぶん利根川が北から南にタテに流れてたからかなぁ、などと思ったことがあります。叔父の所へ帰ったらまた聞いてきたことを書かせていただきます。
それから、下蓮沼村地図は江戸時代の年号ごとに10枚近くあったと思います。原本は前橋の県立図書館だったか名前が出てきませんが、探せばあるはずですよ。ただ、かなり大まかな地図で家ごとの名前が入ったもので利根川と広瀬川がすぐそばを流れてたことがよく分かると思います。
すみません。私のブログには間違えてるところがあるかもしれません。今度帰ったらそのあたりを詳しく聞いてきます。色々とありがとうございます。それから下蓮の後ろが竹やぶで野仏があるあたりですが、子供の頃は段差がもっとあったように記憶しています。
では、今後ともよろしくお願いいたします。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 丸男 2013/12/31(Tue) 09:38 No.1162
トクチャン、おはようございます(^o^)。当サイト運営管理人の丸男です。

実はトクチャンのことは、以前から存じ上げていました。
当サイト掲示板の常連さんの”鳩ぽっぽ”さんが、随分前に右赤城のことを投稿された時、
トクチャンのブログを紹介し、その時に、私もトクチャンのブログを拝見させていただきました。
サイト運営と健康管理のため、休日は市内中をサイクリングで回っていて、
下蓮付近も時々出かけるのですが(忠治茶屋の焼き饅頭もあるので(^^;))、
下蓮一帯がその昔は湿地帯や沼があったことはトクチャンのブログで知りました。
それ以降も何度か足を運んだのですが、どの段差がその痕跡なのか、やっぱり特定できず、課題のままでした。

その後、再び鳩ぽっぽさんが右赤城の記事を投稿してくださり、この機会に私も「右赤城」を取り上げることに。
最初は右赤城の写真や説明文を掲載する程度にしようかと思ったのですが、
なんでここだけ西(南南西)に向かったのかに興味を持ち、例幣使の本筋から離れるのを覚悟で
地形の変遷に着目した記事にしてしまいました。

その時には、常にトクチャンの記事”下蓮付近はその昔は湿地帯や沼地だった”と言うことが
絶対的担保のように記憶の底にあって、安心して記事を書き続けました。
掲示板に皆さんからたくさんの貴重なサイトを教えていただき、これらの歴史を地図と航空写真で裏付けることができ、
とても楽しい展開となりました。

こちらこそ今後ともよろしくお願いします。
ありがとうございました。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 丸男 2013/12/31(Tue) 09:48 No.1163
それからトクチャン情報の広瀬川の土手の下の武士橋まで続く道ですが、
広瀬川サイクリングロードを走っていると、
御嶽山自然の森公園を下って少しの距離の土手下が少し広くなっていて、
桜の時期には、そこで地元の人が花見をしている風景なども見たことがあります。
堤防から降りる斜めの道もあって、たまには集落へ降りたりもします。
ひょっとしてこの場所でしょうか。
次回はMBを押しながら、無理やり踏査してみます。└(^o^)┐


話が逸れますが、下蓮町、その昔は”下蓮沼村”と”沼”の字が付いていたようで、
地名は地形を表すとも言いますので、”沼”の字が残っていて欲しかったです。
”沼”の字を嫌ったのでしょうか。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - トクチャン 2014/01/03(Fri) 14:20 No.1166
明けましておめでとうございます。トクチャンです。
きのう下蓮に日帰りで行ってきました。先ず最初にお詫びしなければなりません。前回書いた例幣使街道の旧道ですが広瀬川の土手下の道は間違いでした。申し訳ありません。旧道は下宿で354から細い道を入り裏宿へ出ると、今は住宅団地となってりる東側へ向かい途切れてしまっています。
また古くは裏宿の道を例幣使が通ったとも聞いています。
先ほどブログを更新して昭和24年以前の広瀬川の流れ跡や水除堤跡などの写真、見にくいと思いますが古地図コピーの写真などを載せました。時間があればあの辺りをご案内したいのですが、なかなか実現しないですよね。それから下蓮沼から沼の字が消えたのは、豊受村が伊勢崎市に合併した時だと聞いています。市側の提示に住民投票をした結果だとか、詳しくは分かりませんがそんなことだったと思います。何にしても残念なことですよね。
では、今年もよろしくお願いいたします。



Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 丸男 2014/01/03(Fri) 20:27 No.1167
トクチャン、明けましておめでとうございます。
更新されたブログ、拝見しました。
広瀬川の古い流れを確認できる現地の写真、とても興味深く拝見しました。
その内の何枚か、例えば広場の脇の道などは先月現地を歩いたばかりで、
「あ、あの場所が古い流れの跡だったのか!」
と、更に興味が湧きました。

下蓮町から”沼”が消えた経緯、豊受村が伊勢崎市に合併した時の決定だったんですね。
残念なことでした。
こちらこそ、今年もよろしくお願いいたします。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 鳩ぽっぽ 2014/01/04(Sat) 22:07 No.1168
丸男さん、トクチャン、はじめ皆様、明けましておめでとうございます。
お正月はやはり、田舎に帰ってお節料理を食べたり、人によっては着物を着たり、日本人が日本人らしくルーツに帰る時でもあるかな〜と思わされてます。
お正月に出身地にお帰りになったトクチャンのブログを、興味深く読ませて頂きました。今回、トクチャンのブログの更新で解ったことを、私の考察も含めいくつかあげさせて頂きます。
1、丸男さんが航空写真から見出した354号線南西側にあるR曲線は、幕末の古地図に「水除堤」として記載されている。
2、古老の話では、「水除堤」の所に広瀬川の土手があった。更に南の段差(石仏のある所)も広瀬川(*或いは利根川本流?)の痕跡の可能性が大きい。だとしたら、右赤城で街道があれだけ迂回したのも納得できる。
「水除堤」の内側は川原だったようだ。また、堤の先(北の方だろう)の方はかつてニシクボと呼ばれていた場所で、周りよりも低く大雨が降ると冠水する。
(*戦国時代は現在の広瀬川が利根川の本流であった。街道が整備された江戸時代初期もまだここに利根川本流が流れていたか、少なくともその痕跡は大きかったであろう。)
3、河川改修前、1947年頃までの広瀬川の流れは、場所によっては公園広場南の道路南のラインまで水が迫っていた。(当時のモノクロームの航空写真では、川の流れが下蓮沼の集落すれすれ、集落裏をかすっているように見えるくらいだったので、そこが知りたいところでした!)
4、旧豊東橋は予想通り、公園広場の西側道路のところに架かっていた。また、橋の架かる前は渡し船で渡り、キンザンジィというお爺さんが渡し場に住んでいたようだ。渡しの向こう岸は馬草場で芝原であった。
5、下蓮沼下宿で北に向かった街道は裏宿で東へ向きを変え、トクチャンの少年時代に通った武士の渡しに至る旧街道は住宅団地造成のために姿を消した。
(下蓮沼の集落は、道標のある所が上宿、交差点辺りが中宿、その東が下宿。ここでも街道は、上方(京都)に近い方が上宿になるのだろう。)
6、下蓮沼村の人々もまるで島村のように、繰り返される利根川や元利根川流路の広瀬川の洪水と共に暮らした。
7、古地図の作成された嘉永七年(1854年)は黒船来航の翌年にあたる。この年、中央ではペリーが再び伊豆沖に再来航しその後、日米和親条約が調印された。下蓮沼村は伊勢崎藩、酒井下野守忠強(ただつよ)の領分に属していた。
以上、トクチャンのブログ更新記事から解ったことをまとめてみました。トクチャン、丸男さん、皆様のご協力で、右赤城ならびに利根川&広瀬川の旧河道もここまで謎が解けて本当に感謝しております。
特に大みそかの、説得力あるご当地下蓮沼ご出身のトクチャンのご登場で、大きな飛躍を遂げることができました!ありがとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い致します。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 丸男 2014/01/05(Sun) 16:30 No.1169
鳩ぽっぽ さん、明けましておめでとうございます。
昨年中は掲示板やオープンガーデンで、大変お世話になりました。
右赤城、まだまだ先が続きそうですが、トリガーを引いてくれたのは何と言っても鳩ぽっぽ さんですから。
今年も鳩ぽっぽさんやトクちゃん、和@さん、にわかTTさん始め、たくさんの人たちと情報交換して、
伊勢崎市の古く貴重な歴史を発見し、掘り起こし、検証したいですね。
あおぞらさんの優しいフォローも嬉しいコメントなので、期待してます。

今年は「女堀」や「あずま道」なども追い駆けたいと思っています。
「女堀」は年末にたくさん撮り溜めしておきましたので、徐々に掲載します。

本年もよろしくお願いします。m(_ _)m


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - あおぞら 2014/01/06(Mon) 00:12 No.1170
遅れましたが・・・
丸男さん、明けましておめでとうございます。
こちらこそ、昨年中は大変お世話になりました。今年も、どうぞよろしくお願いします!
年末に、公園緑地のKさんがいらして、来年もオープンガーデンやりますよ、との事。
ただ私の心配は、そろそろKさん異動になってしまうんじゃないか・・・と、それが気がかりです。
市長に、Kさんをあと2,3年は公園緑地担当にしてください! と直接お願いしたいくらいです。
この年末年始は、名物からっ風はどこへ?・・の穏やかなお天気が続きましたね。
夫も休みに入ってすぐ、バラの手入れなど庭仕事をしたのですが、風があると無いとでは随分違い、作業がしやすかったあ〜と御満悦でした。

こちら《例幣使街道を行く》シリーズは、ちらちら見ていたのですが何せ緻密すぎて、短気で細かいの苦手な私にはついていけませ〜んってな感じで、
夫・鳩ポッポの様子を毎晩、冷ややか、否、冷静に見守っておりました^^
でも、内容は実に面白い!たった数十年前のことなのに、川の流れがこんなにも違っていたことに大きな驚きを覚え、土地を知ると言うか、
自分達の住む土地の歴史を知りながら日々暮らすのと、全く知らないままで居るのとでは大違いだな・・・と改めて感じました。

今年、私が一番興味深い話題は、丸男さんも新年早々に取りあげていらした、玉村伊勢崎354バイパス全線開通。何と言ってもコレですね!
高崎へ1本で行けるなんて、運転苦手の私には心から感謝なことであり、今からワクワクしています。思ったより完成も早いようですし、尚更、嬉しく&期待しています。
あとは、やっぱりオープンガーデンですね。こちらも頑張りたいと思います。
花好き&庭好きな友人や市民をまきこんで、更に充実したイベントになったら嬉しいです!

2014年も <Go!伊勢崎>丸男さんの記事・取材を楽しみにしています。
お体を大切に・・ご活躍&ご健康をお祈りします。


Re: 例幣使街道を行く 右赤城 - 丸男 2014/01/06(Mon) 13:08 No.1171
あおぞら さん、改めまして、明けましておめでとうございます。
鳩ぽっぽさんの興味関心の広さ、緻密さには私も脱帽です(@_@)。
今年も鳩ぽっぽさんに刺激されながら、あれこれと記事にしたいと思っています。
皆さんの知識や情報を集めて、地元の歴史を紐解き、それぞれの時代に想いを馳せること、とても楽しいですね。

東毛広域幹線道路・・・仰る通り、工事も順調で、開通も早めのようですね。
あおぞらさん家は高崎まで一直線、最も恩恵を受ける地域のような(^o^)。
今年の春には快適ドライブができるかも知れません。
しかも、4車線開通も遠からずで。

オープンガーデン、今年は昨年よりも大きな規模になるかも?
今年もまた頑張ってください。よろしくお願いします。

Kさんのこと、花や樹木に限らず、知識・経験が豊富で、
オープンガーデン始め緑化に関するイベントではいつも大活躍してくれますね。
あおぞらさんが心配するように、現在の部署が長いですから異動されるかもですね。
ご本人も他に色々とやりたいことがあるかも知れませんしね。
でも、異動したとしても、間接的に応援してくれるように思います。

今年も健康管理を兼ねて、あれこれ、あっちこっちと「Go!いせさき」頑張ります。└(^o^)┐
よろしくお願いします。