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スタンランの世界 −スタンランの生涯と時代−

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更新:2010/2/11 以下の「序」および「スタンラン その生涯と時代」は『スタンランの世界』(須長康一さん著)からの引用です。

 スイス・ローザンヌに生まれ、パリ・モンマルトルの地で、独特の創作活動を展開した画家テオフォル・アレキサンドル・スタンラン(1859〜1923)はベル・エポック期のパリの世相を物語る数多くの作品を残した風俗画家として知られている。
 スタンランはその多彩な活動の中でも、特にポスターや新聞・雑誌に多くの作品を提供したことがよく知られ、トゥールーズ=ロートレック、ボナール、ミュシャなど今日まで名声をとどろかせている著名な画家達とともに展開した19世紀末のこうした分野への進出は、一般大衆が芸術を自分達のものにすることに大きく寄与したことは言うに及ばず、その社会的影響も見逃すことができない。
 スタンランの目線は常に貧しい庶民の生活に向けられ、都市生活が織りなす光と影の部分に共感を込めた優しい眼差しで、しかし、不正や腐敗には毅然とした厳しい筆致でその実像を的確に写し取っている。このような点にスタンラン絵画の特色を最も鮮明に認めることができる。
 スタンラン生誕150年目にあたる本年、様々な分野で発表された作品の一部を紹介し、彼の活動の一端に光をあててみたい。

2009.11.10 (スタンラン生誕150年目)   
須 長 泰 一    

スタンラン その生涯と時代

 テオフォル・アレキサンドル・スタンラン(Theophile Alexandre  STEINLEN)は1859年11月10日スイス・ローザンヌに生まれた。父サミュエルは郵便局に勤めるかたわら、趣味として絵を描く生活を送り、祖父テオフォル・クリスチャン・ゴットリープも風景水彩画家として活躍していた環境から、子供時代より自然と絵に親しむことになったと考えられる。
 地元ギムナジウム(高校)を修了後、神学を学ぶためにローザンヌ大学文学部哲学科に入学したが、学業途中でミュールーズの親戚を頼り、織物工場の図案家としての職を得る。 妻エミーリエと出会ったのもミュールーズのことであった。
 1881年、妻エミーリエとともにパリに移り、アルザス人経営の織物工場「プティ・ドゥマンジェ」に図案家としての職を得て、モンマルトルのメネシエ街2番地に身を落ち着かせた。以後、亡くなるまで数度の転居はあったが、モンマルトルの地から離れることはなかった。スタンランがパリに移り住むことになったのはエミール・ゾラの小説を読み、その感動がパリに定住することへの決心に大きく影響している。そして彼の絵の中にはゾラの描く世界が一貫して投影されている。
 まさにゾラが描きだしたような日常が存在する貧しい庶民の暮らすモンマルトルには、スタンランが生涯にわたり描き続けた街の生活があった。貧しい生活の中で懸命に生きようとする人々への共感がスタンランの筆には反映されている。

 スタンランが「街の巨匠」・「街のミレー」と呼ばれるのは、彼のこうした活動の特色を端的に物語るものである。またスタンランには「猫の画家」という名もあり、猫好きであったスタンランの家には、多くの猫が飼われ「猫屋敷」と呼ばれていたが、猫と娘コレットをモチーフとした一連のポスターでは大きな成功をおさめ、今日、パリの街角のいたるところで、スタンランの猫のポスターや絵葉書を手に入れることはそれほど難しいことではなく、スタンランの多彩な創作活動の中も、最もポピュラーな一面として捉えられている。ところでポスターが芸術として広く社会に受け入れられるようになるのは、1881年に出版の自由に関する法律制定にともない、検閲制度が撤廃されポスターを自由に掲示することが可能になったことに起因し、新聞・雑誌を中心とするジャーナリズムも飛躍的に発展し、時はまさにスタンランの活躍の舞台が用意されようとしていた時代なのである。

 スタンランがパリに出たのとほぼ同じ頃、モンマルトルには有名な文学キャバレーとして知られる「シャ・ノワール」(黒猫)が開店し、多くの名士や文学者・音楽家・画家などを集めて活況を呈していた。「シャ・ノワール」に集った代表的な文学者にはゾラ、アナトール・フランス、ジュール・ヴェルヌらが、音楽家にはドビッシー、エリック・サティが、画家にはアドルフ・ヴィレット、アンリ・リヴィエールなどがいた。
 スタンランも医者をしているヴィレットの兄弟の往診を受けたことから、ヴィレットの紹介で「シャ・ノワール」に出入りするようになり、その結果、モンマルトルの文化をいろどる様々な人物と知り合うことになった。アリスティド・ブリュアン、トゥールーズ=ロートレック、フォラン、ヴァロットン、カラン・ダシュなどがその代表である。なお、黒猫をモチーフにした「シャ・ノワール」の有名なポスターもスタンランの手になるものである。
 「シャ・ノワール」では宣伝用の絵入り週刊誌を発行していたが、やがてポスターも作品を提供するようになり、これがスタンランのジャーナリズムにおける記念すべき第一歩となり、その後の活動の方向性を決定づけることになった。
 スタンランが残した作品には、油彩・水彩・素描・パステル・グワッシュ・版画・ポスター・メニュー・表紙絵・挿絵など多岐にわたっているが、その中でも挿絵の数は群を抜き、スタンランの創作の変遷を考える上での貴重な源泉となっている。

 1894年、ユダヤ人ドレーフュス大尉が軍機密漏洩のスパイ容疑で逮捕され、その擁護派と反擁護派(反ユダヤ人)でフランス国内を二分するドレーフュス事件が起こった。
 擁護派のゾラは大統領あてに「われ弾劾す」と題された公開状を発表し、大きな反響を呼んだものの、反逆者として起訴され、イギリス亡命を余儀なくされた。スタンランはゾラに呼応するかのように擁護派の新聞・雑誌に挿絵を提供し、その事件の本質を描きだし、反擁護派の実像を暴露している。
 ドレーフュス事件の以後も、スタンランはモンマルトルの日常を相変わらず、暖かい眼差しで描き続けたが、しかし一方、権力や不正に対しては、揺るぎなき厳しい姿勢を貫いている。
 1901年、ジャーナリストで政治家のクレマンソーの力添えでフランス国籍を取得した。この頃までスタンランは精力的に創作活動を展開しており、その生涯で最も油が乗った時期と考えられる。
 1904年、ローザンヌで母親が死亡し、この頃から精神的危機が訪れ、しだいに創作意欲が衰えていくが、ジャーナリズムにはなお多くの作品を提供し続ける。
 アナトール・フランスを介して、マキシム・ゴーリキと知り合い、その肖像画を描き、ゴーリキは「スタンランの描いた肖像画が自分の霊感源である」とアナトール・フランスに書簡を書き送っている。

 1914年、第一次世界大戦の勃発にともない、スタンランは軍の許可を得て従軍し、戦争の真実の姿を描く、一連の作品を制作し、発表した。
 1923年、12月14日、コーランクール街73番地にあった娘コレットの家で心臓発作をおこして息を引き取り、モンマルトルのサン・ヴァンサン墓地の一隅に埋葬され、モンマルトルの地を愛した画家は永遠の眠りについた。

 なお、スタンランの絵画は後のピカソの「青の時代」に大きな影を落とす先駆的な存在であると言われている。




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