「島村・あの人、この人」 その5
■活躍続く、読み聞かせグループ「島っ子の会」■今回は、島村・あの人、この人で最初に紹介した「手作り紙芝居ゆめ工房」の北川さんにインタビュアーをお願いして、島村のお母さんグループ「島っ子の会」を紹介いたします。◇朝から元気なお母さん 18年 「読み聞かせシマショウ」本を小脇にタッタッタ。目指すは島小、元気に駆け込むお母さん″登校してくる子ども達も元気に「おはようございます」と迎えてくれる。8時を少し回ると、多目的教室に明るい笑顔が並び「それでは、朝の読み聞かせ致シマショウ」。以前は放課後行われていた読み聞かせも、現在は朝の15分間。出勤前のお母さんは大忙し。 島小読み聞かせお母さん方の集まり「島っ子の会」のスタートは、平成4年(1992)で、18年も続いています。代表は関口貴代美さん(境島村簡易郵便局勤務)会員は現在17名。いまでは、ほとんどの方が、自分のお子さんが卒業して在校生はなく、島小に通わせておられる方は1人だけとなりました。 発足当時のことを代表の関口さんに伺いました。 「自分の子どもが入学した年の6月ごろ、金井拓美さんが鈴木佳雄先生に相談されたのがきっかけで、先生からは、以前勤務していた学校での読み聞かせグループ活動を引き合いに、細かい指導をいただき、渋沢恵子さんと3人で、“わが島小にも”と、立ち上げました」と振り返ります。 そのころは、学校前に新しい住宅団地ができ、島小に入学する児童も多くいて、全校児童数は少ないながらも、学校を取り巻く父兄らPTA活動にも、更に活気が出てきたころです。直ぐに会員も増え、活動は順調に進み、平成6・7年には、児童文学者椋鳩十さんの提唱する「親子20分間読書運動」が行われました。島小学校は群馬県立図書館から、運動推進校の指定を受け、学校、PTA、島っ子の会、地区委員など、島村あげての取り組みで、運動が展開されました。 ◇「みんな島小の子が好きだから」18年も続いたことについて、関口さんは「会員のみなさんはまず、本が好き。それに島小の子どもが大好きで、本を読んであげることを楽しんでいること。また会員相互の信頼関係。活動は無理をしない。こうしたことが長く続いたのではないか」と語ってくれました。現在、島小は全校児童数29名。会員17人がローテーションで月8回の読み聞かせを行っています。そのほか、公民館活動でも読み聞かせを行っています。 ◇「島っ子の会」の人形劇は、玄人はだし?読み聞かせグループは、小学校のあるところどこにもあって、活動そのものは珍しくはありませんが、この「島っ子の会」のもう一つの特徴は「人形劇」です。正式公演は毎年2月(09年からは12月)、島小で行う「島っ子スペシャル」と、6月の境地区読み聞かせネットワークが行う「人形劇とお話の会」の2回ですが、この人形劇も18年続いて、いまでは各地の読み聞かせグループの間で、特色ある活動として異彩を放っております。2008年の「広報・いせさき」のクループ紹介欄に写真入りで広報され、更に有名になりました。演技力も素人にしては、なかなかの演技“と、高く評価されています。 お母さん方は昼間お勤めをしているので、夕ご飯の後始末を終えて、三々五々公民館へ。「みんな、子ども達の楽しんでくれる顔が見たいから」と練習に力が入ります。毎年新しい出し物に挑戦し、企画から構成、役割、人形作り、効果音、照明など、みんな手作り、手弁当です。 この評判を聞いて、最近では幼稚園・保育園や、地域の老人会からも上演依頼があり、大変喜ばれています。 ■137年の歴史に、いま悩みが■島小学校の歴史は古く、開校は137前の明治6年(1873)です。教育の熱心さでは、伝統があります。特に戦後、この学校で11年間校長を勤めた、教育学者で歌人の斎藤喜博は「子どもを主体とする教育」を追求し「島小教育」の名で、教育史に残る実践を展開して全国的に有名になりました。一時はバスで全国各地の先生方が授業見学に押しかけたという話や、当時芥川賞を受けたばかりの青年作家大江健三郎(後にノーベル文学賞受賞)氏が来校した、というエピソードも伝わります。また新藤兼人監督のドキュメンタリー映画ができ、また78年にはNHKが総合テレビで45分も放映するなど、「教育の島小」として一躍、教育関係者の間では全国的に有名になりました。 こうした古い伝統をもつ島小学校ですが、いま深刻な悩みがあります。代表の関口さんは「一番の悩みは、島小の子どもが、だんだん少なくなっていくことです。来年の入学児童も2人になると聞いています。このままで行けば0ということも考えられます。さらに廃校?‥。子どものいない地域社会とはどんなものか。声援飛び交う運動会もない。子ども達で賑わう秋祭りもない。こんな子ども達の声が聞こえなくなる村、想像すら出来ません。たとえ児童が1人でも2人でも、私達の活動は続けたい」と、島村の将来を心配しながらも、意気込みを話していました。 いくら長い伝統があっても、いくら教育熱心な学校でも、子どもがいなければどうにもなりません。少子化の波に呑み込まれて行くのを止める方法はないものか。先生も親も、学校を取り巻く地域も、頭の痛くなる現実は目の前に来ています。しかし、今の子ども達に暗い顔はできない。明るい笑顔でがんばる、それが「島っ子の会」の今のお母さん方です。 ◇島っ子を守る17人衆の紹介(順不同)★関口貴代美さん ★町田圭子さん ★栗原敦子さん★伊藤貞子さん ★町田友子さん ★栗原みどりさん ★関口美代子さん ★田島マサミさん ★田部井美枝子さん ★町田晴美さん ★大賀千恵美さん ★賀来千恵子さん ★高野容子さん ★星野智子さん ★関口百合子さん ★鈴木佳雄さん(元先生) ★桜井英比古さん(元先生)
読み聞かせ活動の様子は「境島小学校ホームページ」でも見ることができます。 境島小学校の新井校長先生に伺いました・・・◆子ども達は楽しみに境島小では年間を通して、授業が始まる前の15分間を読書の時間に位置づけ、全校児童で朝読書に取り組んでいます。その中でも週2回(月曜・木曜)の「島っ子の会」の皆さんによる読み聞かせは、子ども達が特に楽しみにしている時間です。 ◆読書量は市内で一番 「島っ子の会」の皆さんのおかげで、本校では本好きの子どもが着実に育ってきています。昨年度、本校における年間の図書貸し出し総数は5,848冊。児童一人あたりの貸し出し数は172冊となり、この数は市内の学校の中でも2位を大きく引き離して第1位です。 昨年度、「島っ子の会」の皆さんには年間64回の読み聞かせを実施していただきました。読み聞かせは年齢が上がっても、読書への導入としても有効であり、集中して話を聞く訓練にもなります。これまでも、そしてこれからも、境島小の子ども達の心に残る活動のひとつとして、読み聞かせ活動を継続して実施していただきたいと願っています。 ◆将来の島村の子ども 境島小における今後6年間の児童数の推移を見ますと、児童数減少に伴う小学校の統廃合問題は避けて通れない緊急の課題です。存続を強く望む声がある一方、将来的には廃校も仕方がないという声もあり、地域のシンボルでもある学校だけに、小学生の子どもを持つ親だけでなく、今後、すべての地域住民を巻き込んだ活発な話し合いが望まれます。 (記事:北川 鎭(きたがわ しずむ)さん、掲載:2010/7/11) |
「島村・あの人、この人」 その4
■83歳の田島幸子さん、まだまだ現役で介護の仕事■今回紹介する田島 幸子(たじま さちこ)さんは昭和2年のお生まれ。今年83歳です。今月の初め、新井校長先生と紙芝居の北川さんのお宅を訪問した時、 「島村に凄い人がいるらしいよ。83歳の人が100歳のおばあちゃんの介護をしているんだって。 名前を田島さんって言うらしいんだけど、あんた、知らないかい?島村に誰か知り合いいないの?」 と北川さんから興味津津な話題を提供していただいたのですが、残念ながら私の情報力では力及ばず。 「困った時の校長先生頼み」で、新井校長先生にお願いして調べていただきました。 新井校長先生が早速に田島さんを探し当て、ご本人を自宅に訪ねてお話を伺って来てくれました。 現在、田島さんが介護を担当している方は深谷市にお住まいの100歳のおばあちゃん。4人の介護者で仕事を分担し、田島さんは週2回の介護(夜勤)を担当。83歳の田島さんが100歳のおばあちゃんのお世話をしています。介護をされても不思議ではない年齢の田島さんが、まだまだ元気で更に年配の方のお世話をしていること、素晴らしいことです。 深谷までの往復はバイクを利用しています。また、買い物などもご自分でバイクを運転して本庄市内まで出かけます。バイクの免許は昭和45年に取得したそうですから、運転は大ベテラン。 週2回の夜勤による介護のほかは、家の周りの草むしりや植木の剪定などをして過ごしています。何事もきちんとしていないと気が済まない性格だそうです。 ● 田島さんが介護の仕事を始めたのは、自宅から南へ約100mの特別養護老人ホーム「安誠園(あんせいえん)」が昭和52年にできたときからです。「安誠園」ができた当初から職員として働き始め、施設の開設準備で窓ガラスを拭いたり、備品を運び込んだり、おむつを縫ったりする仕事もしたそうです。その後、介護職員の主任となり55歳の定年退職まで勤めましたが、退職後も施設長に頼まれて、同施設で3年間働きました。 その後、本庄市、深谷市を中心に、遠くは熊谷市まで高齢者を対象とした介護の仕事に従事しているとのことです。 ● 現在の日本は高齢化社会。 高齢者の医療や介護、年金等が社会問題にもなっています。人々が年齢を加えても、いつまでも健康で働く事ができ、社会に貢献する事ができれば、これらの多くの問題を解決することができ、それがまた人々の生き甲斐にも繋がることと思います。 このような社会背景の中で、83歳でまだまだ現役で介護の仕事を通じて活躍している田島さん、とても素晴らしいことと思います。 田島さんは今日もまた愛車のバイクに跨って島村の集落を走っています。 (2010/6/24 記) →安誠園(あんせいえん)(本庄市小和瀬) 実は私も密かに「生涯現役」を目標にしています。神様のお迎えが来る前日まで、現役で人との縁を大切にしながら働く事ができれば素晴らしいだろうと思っています。 私の目標を実践している田島さんを知る事ができ、大いに勇気をいただき、刺激を受けました。若さとは実年齢とは関係ないと言う事を教えていただきました。 |
「島村・あの人、この人」 その3
■Art Farmer 栗原 誠治さん■今回紹介するのは、Art Farmer 栗原 誠治(くりはら せいじ)さん。島小の新井校長先生に紹介していただきました。 栗原さんは昭和44年、川崎市のお生まれ。 4歳から境島村に住み、島村キリスト教会の「めぐみ保育園」と島小、境中学校に通い、東京の大学へ。 故あって地元島村へ戻り、農業と陶芸を学び、今では陶芸は講師として活躍、農業では甘いとうもろこし「ミラクルスイートコーン「味来」(みらい)」を生産、出荷しています。 このとうもろこし「味来」は、とにかく甘い!フルーツ感覚で生でも食べる事ができます。新井校長先生が訪問された6月17日は初出荷の日だったそうで、その準備に大わらわ。出荷先は埼玉県深谷市の「JAはんざわ」。「道の駅おかべ」では「味来」を原料にしたジェラートも食べられるとのことです。 新井校長先生も「味来」をお土産にいただき、島小に戻り電子レンジで3分。皆さんと一緒に食べて、噂どおりの美味しさに大感激だったとのことです♪ 初出荷の準備が済んだ「味来」ピッカピカの粒がビッシリと詰まったスイートコーン「味来」 島村地区はヤマトイモ、深谷ネギの産地として特に有名ですが、島村地区でとうもろこし「味来」を生産しているのは栗原さんのお宅だけとのことです。農協に出荷するほか、リピーターの方から直接注文を受け、宅配便で発送もしているそうです。 (2010/6/18 記) →JAはんざわのHPに、「味来」の紹介が掲載されています。 →道の駅おかべ →栗原さんのホームページ (6/17時点で画像が見られませんが、至急対処するとのことですので、ご了承ください) 島村で育った栗原さんが、地元に戻って陶芸や農業で活躍されている事、とても頼もしく、素晴らしいことと思います。 フルーツのような甘いとうもろこしがあること、噂で聞いた事はありましたが、地元伊勢崎で生産している方がいたこと、しかもその方と縁ができたこと、とても嬉しく思います。栗原さんのホームページを拝見し、その多才ぶりとエネルギッシュな活躍に感服しました。 |
「島村・あの人、この人」 その2
■地域の環境美化ボランティアを続けて10年以上 関口 保さん■今回紹介するのは関口 保(せきぐち たもつ)さん。今年の島村渡船フェスタの時に、会場で島小の新井校長先生から「毎日、ボランティアで島村一帯のゴミ拾いと島小児童の安全パトロールをしてくれている人がいるんです!」と情報をいただき、「それは素晴らしい!是非紹介してください」と話を交わすうち、関口さんもフェスタ会場にいらっしゃって、まずは初対面のご挨拶。 そして一昨日、校長先生からボランティア姿の関口さんの写真と記事を送っていただきましたので、ここに紹介する次第です。 関口さんは昭和11年のお生まれ。年齢を聞いてビックリ。一回りお若く見えます。 昨年までは児童の下校時に合わせて、安全パトロールと地域の環境美化(ゴミ拾い)を実践。 今年は、下校時の安全パトロールは老人クラブに任せ、早朝の児童の登校時の安全パトロールと地域の環境美化に取り組んでいて、このボランティアを始めてから既に10年以上が経っています。 ゴミ拾いの範囲は、境島小学校周辺から上武大橋まで、県道沿線だけでなく細い路地に至るまで、島村地域一帯です。 一口に10年と言っても、実践することはとても大変なこと。自分達の住環境をいつも綺麗にしておくことは大切なことと分かっていても、腰が重いのが人の常。 関口さんのこのボランティア活動、地域の美化に貢献し児童の安全を守るためだけじゃなく、自分達の地元を自分たちで守ると言う啓蒙にも繋がる素晴らしい活動であると思います。 関口さんのボランティア活動の足はMTB。かごにはゴミ袋と火ばさみ。蛍光色のジャンパーと防犯パトロールの腕章を付けて、関口さんは今日も島村の美化活動と安全パトロールのためにペダルを踏んでいます。 (2010/6/2 記) 【更に続きが・・・】 上記の記事を掲載して間もない6月6日、島村で行われた高良留美子さんの島村歴史講演会に参加し、その日、新井校長先生から関口さんに関する新たな情報をいただきました。 それは、関口さんは、以前は現在よりも更に広範囲のゴミ拾いを行っていて、島村から本庄駅や深谷駅までの道のりのゴミを自転車で拾い集め、ゴミ袋が一杯になると路傍の適当な場所に仮置きし、一旦家に戻ってから今度は軽トラに乗ってそれを収集して回ったとのことです。 誰でもができそうでありながら誰にもできないこのような地道な善行。 ややもすると責任を果たす前に自己の要求を主張するのが世の中の傾向。関口さんのこのような行いはそんな世の中に対して、身をもって何か大切なことを教えてくれているような気がしています。(2010/6 21 記) 私などは自宅沿いの道路や事務所脇の道路などに空き缶やゴミが落ちていても、なかなか腰をかがめて拾うこともしなかったのですが、関口さんの話を聞いてからちょっと恥じ入り、以来、ゴミ拾いに心がけています。やってみるとちょっと気持ちがいい自分がいることを発見しました。 ・・・実は、去る5月9日、休日を利用していつものように私の愛車、MTBの太郎君に乗って島村を散策したのですが、この時、養蚕農家やキリスト教会、街並などに神経の大部分を奪われながらも、一回りして帰路に着く頃に気が付いたことがいくつかありました。 それは、集落内に派手な看板や広告塔が見当たらないこと、道路脇にゴミが見当たらない事、家並みが落ち着いている事などでした。今回、関口さんの活動を紹介していただき、その内の一つの理由が分かった次第です。 |
「島村・あの人、この人」 その1
■紙芝居の北川 鎭さん(手作り夢工房)■まず最初に紹介するのは紙芝居の北川さん。島小の新井校長先生から紹介していただきました。北川 鎭(きたかわ しずむ)さんは、昭和4年生まれ。 島小のすぐ前にお住いです。 2000年より手作り紙芝居を始め、現在までに子供からお年寄りまで楽しめる紙芝居17作品(*1)を作成し、小学校や児童館、老人会、保育園、公民館等で上演しています。 また、紙芝居の貸し出しも行っています。 この10年間の手作り紙芝居の歩みは・・・・ ●利用総数 212件(貸し出しを含む) ●観客総数 約8,500人 ●人気作品ベスト5(17作品中) 1位 蜘蛛の糸 2位 火の雨・東京大空襲 3位 お天とうさまのなくなる日 4位 夕鶴 5位 くだし薬 去る2010年4月19日にも、島小で紙芝居「蜘蛛の糸」を上演されました。(2010/4/23 記) 紙芝居の装置は全て北川さんの自作です。 ▲ページTopへ ● 北川さん訪問記・ボランティア活動のきっかけになったあの日の出来ごと ●去る6月6日、島村公民館で開催された講演会の後、島小の新井校長先生に案内していただいて北川さんのお宅を訪問しました。 島小のホームページで北川さんの顔はよく存じ上げていましたが、会うのはこの日が初めて。北川さんはちょうど庭で紙芝居の舞台の照明装置製作の真っ最中。ご挨拶を後回しにして、まずは照明装置の出来栄えと点灯テスト。無事に点灯し、「お〜、パチパチパチ♪」メデタシめでたし。 点灯試験を無事に終えて、改めてのご挨拶もほどほどに、紙芝居への思い入れや現在制作中の新作の話、私が前回の記事でAmazon書籍から紹介した本「はじめよう老人ケアに紙芝居」を北川さんは既に持っていて、老人ケア効果に高い関心をお持ちの事。「あんた、この本どこで調べたの?」と問われた私自身が紹介した事さえ忘れている始末で偶然の一致に喜ぶやら恥ずかしいやら。 その他にも楽しい話が次から次へと溢れるように出て来て話が尽きません。 楽しい話が続く中、心を打たれる話がありました。 島小の前にはかつて島村蚕種組合がありました。 島村の一大産業を支えたこの組合も、蚕種産業の衰退と共に昭和63年に解散し、跡地は住宅団地として生まれ変わりました。その時に団地に移り住んだのは主に県外の方達で、北川さんもそのお一人。 ご夫婦で移り住んだのですが、その後、不幸にも奥様を亡くされ、この地で葬儀をあげることになりました。北川さんは地元の人ではないので、島村には身内どころか知り合いもいません。 奥様を亡くされ、悲しみの中で葬儀をあげる中、遠来の弔問客だけで葬儀を済ませるのだろうと当然のように思っていたところ、何と、地元島村の皆さんが次から次へと弔問に訪れてくれたのです。 奥様は兎も角、北川さん自身は今まで地元と大した付き合いもして来なかったのに、こんなにも大勢の人が弔問に訪れてくれたこと。北川さんに取って生涯忘れられない出来事になりました。 今、北川さんはボランティアで紙芝居を続けています。 この日の事がきっかけになって「島村の皆さんに恩返しをしたい」との思いを胸に秘めて続けています。 ●
この日(6/6)に見せていただいた照明装置、早速に6/12の島小の「読み聞かせ」時間の上演で活躍したようです。 今、告白すると、北川さんにこの話を伺った時、実は喉が詰まって相槌を打てませんでした。お喋り丸男の饒舌も涙腺には勝てませんでした。 (2010/6/15 記) (*1)北川さんの作品一覧
▲ページTopへ【申し込み方法】
○伊勢崎市生涯学習課(内線3404)で「まなびぃ先生46番、家庭教育・紙芝居」に。 または、市内各地域の公民館から、上記へ。 ○伊勢崎市社会福祉協議会境支所(74-5294)福祉ボランティア係へ。 ○郵便では 〒370-0134伊勢崎市境島村1968 手作り紙芝居ゆめ工房(北川)へ。 ● 英語で紙芝居。北川さんと島小、新たな挑戦! ●島小のすぐ前に住む北川 鎭(きたかわ しずむ)さんが、島小の協力と推薦を得て、紙芝居の新しい挑戦を試みます。伊勢崎市の南端部に位置する境島村地区は、かつては日本を代表する蚕種の産地として長い歴史を刻んで来ました。同時にその歴史は大河利根川の氾濫との闘いでもありました。延宝3年(1680年)から堤防が完成した大正8年(1919年)までの239年間に発生した利根川の洪水は、実に21回とのこと。 北川さんの創作紙芝居「ねこのおんがえし」はこのような島村地区の先人たちの苦労を題材にし、当時の島村を偲ぶことができればとの想いから創られました。 今回の英語版の制作は、子供たちが、大好きな紙芝居を通じて英語に親しみを感じることができるように、また、日本独自の文化である紙芝居を、海外へも発信することができればとの思いも込められています。 北川さんがこの企画を島小の新井博校長先生に伝えたところ、島小内部でも即座に話が進み、来る10月25日(月)には、ついに初上演の運びとなりました。以下、その詳細案内です。 創作紙芝居 −島村むかしの話から−「ねこのおんがえし・The Cat's Gift」■枚数、時間 : 16景、約15分。■構成・絵 : 北川 鎭(きたかわ しずむ)さん ■英語訳 : Carl Shiromaさん(島小 外国語指導助手)、Yukiko Okadaさん(島小 英語活動支援助手) ■協力・推薦 : 伊勢崎市立境島小学校 ■初上演日 : 平成22年10月25日(月) 4校時(11:30〜12:15) 5,6年生の授業。 ●物語のあらすじ● むかし、大雨が長く続いたある日、島村は大洪水になり、人々は村のお寺へ避難します。しかし逃げ遅れた者、病人などが多数流されました。寺の住職の奥様も行方不明です。残された娘ユキは、母の帰りを待ちながら川面を見つめていると、そこへ流木につかまって子猫が流されてきました。・・・・・以下、本編のお楽しみ。 (2010/10/18 記) →北川さんについてはこちらをご覧ください。 ※当日の参観を大歓迎との事です。ご希望の方は島小へ事前にメールで連絡してください。 ※英語版は英語用教材として貸し出します。 【申し込み】:島小 TEL 0270-74-9346 ※日本語版は出張上演します。貸し出しも可。 【申し込み】:北川鎭さん宛て 郵便370-0134 伊勢崎市境島村1968-358 当サイト管理人の私は昭和24年生まれの団塊の世代。その私が小学生の頃、近所の広場に週に数回紙芝居のおじさんがやって来ました。木戸銭代わりに5円か10円で水飴などの駄菓子を買って、紙芝居の前に並んで食い入るように観た紙芝居は今の映画以上のワクワク・ドキドキの楽しさがありました。まだテレビがない時代でしたが、その分、想像力や好奇心を駆り立てられ、登場人物ごとに声色を変えるおじさんは、魔法使いのようでした。 親から小遣いをもらえなかった日には駄菓子を買えず、ちょっと後ろめたい気持ちもありましたが、おじさんも「買わない子は後ろで見てね」と言うくらいで、「見ちゃダメ!」と言われたことはありません。「三丁目の夕日」の世界でした。(2010/4/23 記) ▲ページTopへ
●北川さんの戦争実体験●昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲の記録
まもなく3月10日です。皆さんはこの日が何の日かご存知でしょうか。私はこの日を忘れることはありません。 昭和20年(1945年)3月10日、東京大空襲の日です。 この前年の4月、私は北海道の小学校高等科を卒業とともに、東京の軍需工場へ働きにきました。 3月9日の真夜中、空襲を知らせるサイレンの音で起こされ、夜空が銀色に染まるほどの数の機体から、火の雨のように降る焼夷弾(ナパーム弾)によって燃え上がる中を逃げ回り、折からの強風で火の粉を浴び、熱さに耐え切れず、最後に選んだ川へ飛び込みました。川は深く、沈まぬようにと、流れてきた溺死している遺体につかまりながら、身を切るような冷たい水の中を、首まで浸かって二時間。(私は足に火傷、目に怪我ですみましたが、一緒に飛び込んだ友人は目の前で溺れて亡くなりました) この日、私の会社の200人を超える同僚(主に地方出身の若い女工)も、焼死。また、熱さをのがれ川へ飛びこんで水死しました。同時に都民20万人が焼死・水死、または東京湾に流されました。 (この様子を「子に伝える戦争の話」として紙芝居作品に残した「火の雨‐東京大空襲」は23箇所、「父さん早く帰ってきて」(全国コンクールで受賞)は30箇所で、たくさんの方に見ていただきました。) 先の戦争を象徴する戦災地として代表されるものに、沖縄、広島、長崎などがあります。それぞれの地には慰霊碑が建てられています。毎年記念日には、総理大臣まで参加して、戦火に倒れた方への追悼が行われ、その様子は新聞・テレビなどでも大きく報道されます。 しかし東京大空襲で失われた20万人の「東京大空襲慰霊碑」はありません。あるとするならば平成13年、被災56年目にして、都が募金でようやく建てた「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」が墨田区横網町の公園内にあります。半円形(直系6メートル)の一見小さな野外音楽堂のような形で、遺骨は入ってはおりません。 また都が主催する記念式典も、今年は東京都庁の大会議室で、たった申込者100人での追悼式です。 (平成13年墨田区で行われた法要では、横網町のお寺で回向料千円を徴収しての有料の、それも天災である関東大震災被災者との合同法要でした。) 空襲が止んだ朝、「天皇陛下が視察に来られる」(Youtube東京大空襲・天皇ご視察:参照)との命令が伝えられ、兵隊、囚人、学生、消防団員、警察官700人によって急遽、遺体を空き地や公園に埋められてしまった人々。(もし、天皇陛下が、死屍累々たる惨状をご覧になっていれば、戦争はもっと早く終わり、その後の沖縄戦や、原爆による犠牲者はなかったのではないか) また、熱さを逃れて荒川や隅田川へ飛び込み、東京湾に流されてしまった人。私が見た言問橋(ことといばし)の上で、粉々にした貝殻のように散乱する遺骨の山。 後々の人達は、誰が、その人達にどんな弔いをしてあげたのですか。どこで手を合わせ、どこでその人の名を呼んであげられるのですか。 「東京大空襲」は報道されることも、この日を知る人も他に比べて少なく、いまでは多くの国民には「忘れられた戦災地」になっています。 B29爆撃機333機が落とした焼夷弾100万発。かつて世界の戦争史上、類をみない無差別爆撃。空中から撒かれた2千トンの油。燃え上がる炎の中を、戦闘員でもない一般市民が、親は子の名を叫び、子は親の名を呼びつつ、たった2時間半で20万人(実数不明)が焼き殺されました。そして一夜にして一国の首都が灰燼化されてしまったのです。なのに、どうしてこんなに扱いが違うのか。 私には、いまだにわかりません。 それを無念に思いつつ、66年目の冥福を祈ります。合掌。 ◆一夜にして親姉妹を失った小学3年生の少女の記録より◆『神様、教ヘテクダサイ。ワタシハ罰ガ当タルホド悪イ子ダッタノデセウカ。向コフデハ(学童疎開先・宮城県鎌崎)友達トモ仲良クシマシタ。先生ノオッシャルコトモ、ヨク守リマシタ。オ母サンニホメラレルヤウニ、勉強モ一生懸命ガンバッテキマシタ。ソレナノニ、コンナヒドイ罰ヲウケルノデスカ。神様、オ母サンヤ、オ姉チャン、百合(妹)チャンニアヒタクテ、ヤウヤク帰ッテキタノニ、空襲デ死ンジャウナンテ、ドンナ悪イコトヲシタノデスカ。教ヘテクダサイ。』(空襲の翌日、疎開先から浅草に着いた茉莉は、我が家の焼け跡で、目から赤い涙が出るほど泣きました。) 【金田茉莉「東京空襲と戦争孤児」より】 (以上、北川 鎭 さんが当サイトの掲示板に寄せた記事を2011/3/9に転載。) 【追記】
上岡(※)さん、ありがとう。今年、都知事選挙があります。群馬県にいてはどうすることもできませんが、過去の知事、何代か代わってきましたが、どうしてこの問題をないがしろにしていたのか、わかりません。それが無念です。 私の会社の寮生約200人の処置ですが、遺体を並べ、溺死したものは胸に着いている名札を取り、めいめいの小指を切断して包み、庶務課の人が親元へ送るための手助けをしました。そのあと、遺体を並べて鉄板を覆い、焼きました。黒い煙が天に昇っていったのを、忘れることはありません。こうした、いわば私的な遺体処理は何処にでもありました。ですから、死者の数が不明なのです。 戦後、繁栄の証のビル群はその遺骨の上に建っているのです。 今回、上岡さんのサイトで、私の積年の思いを皆さんに明かすことができました。こんなことは初めてです。紙芝居でも様子は描きましたが、これもいつまでできるものか。一人でも二人でも、あの戦争を知っていただければ、そんな思いでキーを叩きました。 (以上、北川 鎭 さんからいただいたメールです。) (※)当サイト管理人・丸男の本名です。 ■管理人・丸男の記憶■私が社会人になったのは40年前。新卒として新人研修を終えた後の最初の勤務地が東京江東区・深川。地下鉄東陽町の駅から会社までの間に天井川(周囲の道路より河床が高い川)の運河が流れていて、職場には東京大空襲の状況を知る年配の人達もいて、この川が空襲の火災の熱さで逃げ惑った人達で埋め尽くされた話を聞きました。また、公園の名前は忘れましたが、焼死した人の形が園内の石造物に影になって残ったり、また公園内には真っ黒に焼け焦げた死体が山となって積まれた話なども聞きました。当時もっと色々と聞いて記録しておけば良かったと今更ながらに思っていますが、40年後の今、北川さんの体験記録に接して、それをお伝えする手助けができることに人生の深い縁を感じています。(2011/3/9 記) |
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金田茉莉さんの 「東京空襲と戦争孤児」 |
金田さんの他の著作の紹介 「夜空のお星さま」、産業時報社 (虔十社)、1990年03月出版、¥1,680 (税込) 「母にささげる鎮魂記」、草の根出版会、1986年07月出版、¥1,050 (税込) |
北川さんの紙芝居「峠の老い桜」 「雲母書房」から出版 |
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「あ、赤上げて、白上げないで、赤下げない」 と、ひょうきんな動きをします。 ちょうど北川さんのよう。 2011/5/15 |
北川さん手作りの応援団長の人形 2011/5/15 |