Go!伊勢崎
近 藤 藏 人 美術館

美術館(人物1)美術館(人物2)美術館(動物)美術館(風景)伊勢崎市街中遺産建築音楽と本プロフィールHome




同窓会


掲載日:2014/6/6
さる、5月23日、新宿にて東京支部同窓会が行われました。
今春卒業の若人が10名ほどいましたが、総勢80数名の同窓会です。
千葉、埼玉、神奈川、群馬そして東京などから、何かに吸い寄せられて集まって来ています。
その何かがいつも気になっていたのですが、今回僕なりに明確になりました。
当然、私は違うかも、とおっしゃられる方もいらっしゃいますでしょうが、一つの例としてお聞きください。



会の収支や役員の紹介、現校長の挨拶も、会の性格上必要でしょうが、これを目当てというわけではありません。(現在の葺高の現状を現校長から、聴きたいと思われる方がいても不思議ではないのですが)
今回も趣向を凝られて、同窓生の美しいジャズシンガーが、若い溌剌としたピアニストの伴奏で歌われました。しかし、これを聴きに来ている人は、知り合いの数人かな。
興に乗れば、数曲歌ったでしょうが、残念ながら一曲歌っただけでした。
その後、ホテルの立食形式で乾杯し、さまざまなお酒がふるまわれました。
飲み会目当ての人たちは、結構いるかもしれません。
でも、気の合う仲間との飲み会なら楽しいのですが、年代はバラバラだから、親しく会話する方たちは数組あるかないかでしょう。
それでも、至る所で会話はされています。
こちらで話、あちらで話をしています。
壁際や、ポツンと椅子に座っている方も少々見受けられます。
親しいかたは、他の機会に会ってもいるでしょうから仲良く話していますが、この場所で初めて会話される方は、親密そうにはしても、急に親密になれるものでもないですね。
テーブルの上には、様々に盛り付けを工夫された、美味しそうな料理が並んでいます。
暖かいものは暖かく出され、最初にこの場所で頂いた料理とは違うメニューとなっているようですが、今回は、会員の予算を少しでも来られやすいように値下げされたので、また、特別美味しいものを食べに来ているわけでもありません。
お酒が入り、小腹も治まり、さてこれでどうしようと逡巡しても、積極的に会話相手を探さなければ、隅っこで皆の動きを眺めているだけになります。
どうして来てしまったのかなーと考える寂しさを味わうことになりますから、少しは会話相手を探したほうがいいでしょう。
出席者は胸に卒業年代を記入したカードを附けているので、同年代の方と話してみるといいでしょう。



その時、ふと、ないものに気が付きました。
関西弁は?
どこにも関西弁らしき会話は成立していません。
神戸から来た前会長だけが、元気な関西弁で時々聞こえてきます。
会に来る目当てに、関西弁の渦の中に浸りたいと言う気持ちがありました。
だけれども、今では、青森の人でも、長崎人でも、人前に出てきた人達は標準語で話すのが普通になってきているようですので、あきらめるしかないようです。
10年も前の同窓会なら関西弁が行きかっていたのですが、徐々に、若い人も老人も公の場では話さなくなりました。
関西から離れて生活している僕たちは、田舎の兄弟や母親に電話したときだけ、関西弁で話し、関西弁を聴きます。
その中、前会長の関西人としての誇りが際立ちます。
僕は関西弁を捨てて40数年なのだから。
時には、生涯関西弁で通した人もいたのだけれど、望む方が無理というものかもしれません。
地方の食べ物や方言がなくなることはさびしく、それらが、僕たちが元気になる理由の一つだと思うのですが、今では、日本の趨勢なので、関西弁も我慢しなければなりません。

会も時間が経過して、会話が弾まなかった方は、さびしい思いをしてきます。
パーティーの基本だと言って、話を弾ませる社会性の優れた方は、話し疲れて、ふーとため息の出る頃です。
壇上から、それでは会の終わりの時間が来ましたのでと、2次会の案内があります。
このままでは、2次会へ行こうという気持ちが起こりません。
壇上では、今から校歌を斉唱しますとアナウンスがあります。

神戸第一中学校校歌(創立の歌)、神戸市立葺合高校校歌、生徒歌と歌い始めます。
嘗ては、輪になって歌ったのですが、今回は作曲家の東京支部長大政さんが演奏し、それに合わせて、それぞれの立っている場所で歌います。
覚えていなくても、筒台会誌を渡されるので、それに掲載されているから、見ながら歌えます。
「あーしーたー、雲まく峰をー・・・・」と始まれば、口をついて歌が出てきます。
だんだん自分の声が大きくなり、音程が少し狂っても人には知れないので、気分よく歌っています。生徒歌になると、壇上では、声に任せて肩を組んで歌っています。少し軍歌っぽいのですが、そのためにリズムがあり、声を張り上げ安くなるのです。

「はる らんまんと 咲き誇るー・・・」

そうですね、僕は、突き詰めれば校歌を歌いに来ているのです。
高校時代に歌った、完全に忘れていると思っていた校歌が、僕たちを待っていました。
はるか懐かしい高校時代の自分、葺高の校舎の窓から見える大阪湾の海は、春先にはきらきら輝いて、光のベールに覆われているようでした。
まだ、何物ともしれない不安定な自分、何にもなれないと落ち込んだ日々、
友人と語り明かした六甲山、郷愁は、人々を、法悦として無私にさせます。
現在何物でなくても、その時は、輝いていたように思います。
高校時代と限らなくても、自分が世界や、宇宙に包まれた幸福感、世界と完全に調和した記憶があります。
母性的な自然に包まれ「今自分は世界と調和している」
六甲山の林の中や、山陰の青い海や、吉野川の河原で、生きている多幸感を味わった経験があると思います。
その経験の気持ち良さが、僕たちが生に求め続けているものです。
そのことを書いた「夏の光」をもう一度掲載します。



ボードレールに、「さらば、つかのまの われらが 激しき夏の光よ!」と訳されている心に残る詩文がある。
これを、我流で意訳すると、以下の通り。

我々の生における謳歌は、夏の光の下にあって、いまなお、記憶に鮮烈に残っている。
夏の一日は、生の充実にあふれていた。
それらは 過ぎ去ってしまって、戻って来るわけでないけれど、
夏になると思い出し、
夏が過ぎ、中秋の名月あたりのひんやりとした風が吹くと歌いたくなる。

馬齢を重ねると、その思い出こそ、生きてきた証のように感じられる。
少年時代は黄金のように輝き、詩人が激しき夏の光と歌ったように、 
人生の肯定、生きていて良かったと思える時間を持っていた。
海水浴、魚とり、朝早く起きてかぶと虫、
井戸で冷やされたスイカ、山登り、吉野川の川遊び、
水に冷えた頬を焼けた岩に当てると、ゆっくり消えていく黒い水あと、
真っ青な空、輝く入道雲、すぐさま稲光、
土砂降りの雨、縁側から雨が跳ねる景色を飽かず眺める、
止むと見晴らすばかりの、竹林と吉野川、貞光の町の後ろにそびえる青い山と、谷また山。
自然との感動的な邂逅だった。
いつか、自死を想像する事あっても、その瞬間を思い出す余裕があれば、止まれる事柄。
それらを含めて、詩人は歌ったのだと思われる。
毎日は過酷に過ぎて行き、叙情的であることは、生活不適者となじられる。
しかし、目鼻の達人のように生きられずとも、時には、よいではないか。

青い太陽にささげられた 水しぶきよ 白く輝いて飛翔せよ!

生には、他者との付き合いで生まれる、苦しみと喜び、
自然の中で生まれる感動と恍惚、慈母のような自然と厳父のような自然との邂逅。
他者からの苦しみは自然が癒し、自然からの苦しみは他者と分かち合う。
世界は、他者だけで成り立っているのではない。
自然がある。

男性的なる小児性は隠されていても生涯にわたって現れてくる。
そして、しらずしらずに、秋のひんやりとした季節を迎えると、
なにやら心さびしくなるのは、
過ぎ去ろうとする夏には、あの激しい季節を包摂した経験があるからなのだ。
そして、惜別の名残を込めて
  「さらば つかのまの われらが激しき夏の光よ!」
      と 歌うのだ。



夜も更けて、帰る時間となって、ここまでの準備をされた方々に、お礼を言わなくてはと思います。
会の楽しみは、一つ一つのイベントや、食事や雰囲気によって高められますが、それらを準備した彼らにありがとうと言います。
校歌斉唱が終わり、集合写真を撮るころになると、来てよかった、来年も歌いに来るか、と思っています

今回は、珍しく44年卒が4名も集まりました。
そして、9月ごろ、44年卒の集まりを持とうと、3年の時3組だった石黒君からの提案がありました。
急に親密にはなれませんが、話を重ねるごとに思い出があふれ、馬齢を重ねた我々の顔が、かつての高校生の顔に見えてくると思います。
それには、同時代の他者が必要です。
自分は自分を知らない。
自分を見ていた仲間が、あなたのことをよく知っています。
自分の高校生活を語り合える場に、高校時代のあなたが出現します。
きっと、あなたが知らないあなたのことを話してくれるでしょう。
自分を形成した高校時代を振り返ってみることは、悪くはないと思います。


郷愁を、ヘミングウエーが良い箴言として残しています。
「人には、誰にも恋人がいる、その恋人の名は、ノスタルジー」

2014/5/25 近藤蔵人







▲ページTopへ