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近 藤 藏 人 美術館

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多様性


掲載日:2013/10/9
群れを作って遊泳するイワシ、何匹いるのか大きな塊で、全員一致で右往左往する。
リーダーは一匹でなく、先頭は先端だけにいるのではなく、右側や左側から突如現れ、全員がその方向に動き遊泳する。
水中では、塊のほうが発見されやすいと思うが、誰でも先頭に立つことができれば、動きは読まれることがなく、集まったほうが、種の生存率が高くなる。

あらゆる生命は、種の絶滅を最も避けなければならないことと構造されている。
個が食されても、種が残れば勝利なのである。
それでも塊の中から飛び出して我が物顔で泳いでいるイワシがいる。
ほんの少数は、群れから離れたり引っ付いたり、その中で離れたままのイワシもいる。
群れの塊が、クジラの大きな口にすっぽりと入ってしまえば、その種は、絶滅の危機を迎えるが、目障りであった塊から離れたイワシが、そのうち同じ系統の遺伝子で、同じような群れを作るだろう。多様性の勝利である。
(離れたイワシだけ食べられるということも当然あるのだが)



ある村で、一軒の床屋が金持ちになった。
100数名いる村人は、お金なら床屋になれば手に入ると、多くの村人が床屋になった。
その村は、早晩食うに困るようになるだろう。
世界は、多様性を担保に成り立っている。
人間も多様な考え方の人々によって将来が開けてくる。
均一であることは、未来の不安定を示す。

フェイスブックもツイッターもその多様な言説で成り立つが、一人一人のよって立つ立場やしつけられた無意識や思い込んだ思想によって、言葉は紡ぎだされる。自分が何を前提に行動し、どう発言するかは自分自身で見極めなければならない。
頭に血が上っているのか、誰かに喋りたい衝動があるのか、今窮地なのか、孫の代を考えてなのか、考え尽くしてか、取捨選択したあげくか。
種の保存のために考える人々と、個人だけのことが優先される人々では、それを意識しないと話は通じないことになる。



世界の終末は、人と人との戦いにより殺戮が繰り返され、人類は死に絶えるだろう、と学者が言う。
(その時地球は何を思うだろう)
国民国家は、戦争の強度の為に偶然つくられたという。今は立憲君主では、国連に加盟できず、国民国家でなければならない。
社会は、社会を維持しようとする努力がなければ、未来に展望を開けるようにならない。
社会は国家も含むが、国家だけではない。
地域社会であったり、広域社会ということもある。家族も最少社会である。
子供を、社会性ある大人へ育てようと親は子育てをする。それは世界共通であるようだ。

しかし、文明国ではほとんどが途中で挫折する。個人主義が成熟を阻害するのだろう。
社会を良きものとすることより、自己の幸福に重点をおく。
社会は多様性を旨とするが、一定数の社会の為にと行動するものがいないと、社会は成り立たない。
30年50年先のことを考えられる人。国家100年の計。
(慣用句に込められた願いと、改めてその事実に驚く)

人による滅亡を避けようとする人々。崩れそうになった現場を立て直す人々。震災の被災者に、おにぎりを作る。
体育館のトイレの掃除をし、寒そうにしていれば上着を探す。政治を担当するだけでなく、現場でたち動く人たちのことである。みんなが、そうである必要はないが、一定数の成熟した大人が現場には必要である。



一様な行動を取るイワシのような動物の群れに、群れとしての意識があるか研究する人たちがいる。
人の脳は、一つ一つの細胞が集まって、考える機能を持つ脳となる。
一つ一つは微細につながりあっているが、心は作れない。
集まった細胞によって脳は、記憶する、思考する、などのこころの機能がある。

一つの脳細胞が、一匹のイワシと同じだと仮定すれば、「イワシの群れは意識がある」という仮設が生まれる。
細胞は、自分の到着点は自覚しない。足になるか目になるかはその時点ではわからない。
隣の細胞の変化を感じながら自分も変化し続ける。そうして鼻になり筋肉になる。
イワシも隣の動きに合わせて群れとなる。一匹一匹が、コミニュケーションしながら、群れとなり、群れは一つの生き物のように行動する。捕食者から逃げるために、塊の至る所から旋回する。
旋回する方向の先端にいるイワシたちが群れを先導している。一匹のイワシは追随者であり統率者でもある。



人間は、通常群れを作ることはないと思われている。人工的に、集められて行動を起こすことがあっても、自然発生的には集まらないと思われている。しかし、集落は、イワシと同じような群れと考えることができる。
山の麓や谷に集まっている集落には、天候や利便性を考えると集まる意味がある。全体で持ちこたえようという意思もある。

個体と群れ、どの生命も個体だけでは生きられず、群れだけでも多様性を失う危険がある。

2013/10/8 近藤蔵人







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