昭和初期権現山古墳の状態
−『佐波の古蹟より』
殖蓮村権現山古墳群
 上代人は現代人よりも優れた自然児であり、又、抒情人であつた。人間の死
に就て深刻に考へ、強く刺激されもした。墳墓は単なる屍体を埋める所でなく
霊魂の永劫に活動し、現世の人々と交渉すると考へた。霊魂の眠るところ、又
は活動するところーその墳墓は神聖であり神秘なものでなければならない。
墳墓の地を求めるに上代人は地形よき神秘な幽邃な地を選択したのである。権
現山は現今でも鬱蒼と樹木は茂り神秘境を成してゐるが上代に於ては、より以
上に幽邃な天然の丘陵地であつたらう。墳墓は次から次へと造営され、現在見
る郡内有数の古墳群を形成した。今、古墳の散布状態を考察するに、権現山頂
附近に十個余あり、四囲の山麓に又十数個存在してゐる。山頂を中心としてみ
れば東は東村、淵名方面に、南は小斉、北は上植木と十教町の距離の範囲内に
放射状的に或は集団状態に古墳は累々として起伏する。之れを凡て一轄して現
現山古墳と名づける。古墳は何れも皆な円墳で平均高さ一丈二三尺、直径十間
内外の小古墳である。形状、封土、等皆な共通する点が多い。古墳は昔時より
凶暴時に破壊され数は著しく減少したが現在でも四十個内外は存在する。今、
煩雑なる記述を止め本古墳群の特徴を挙げ、更に簡潔に考察を試みやう。
  一、石棺を有する古墳は一個もなく、皆な自然石に近い凝灰岩の石槨式石
    室である。
  ニ、武器類の出土の著しいこと。兜、刀身、鉄鏃等遣物中最も多量に出土
    する。
  三、玉類の出土の少なきこと。少数の曲玉及び、管玉、幼稚な切子、丸玉
    等のみ出てゐる。
  四、埴輪円筒土偶の出土の多いこと。而して皆な精巧にして種類の多いこ
    である。
  五、陶器の出土の僅少にして土器は皆な素焼器のみである。
 以上の五項のうち、特筆すべきものは.第四の埴輸土偶出土の多いことであ
る。本古墳群中からは、如何なる古墳中よりも発見され、皆な、土質も良く而
して堅く焼いてあり表現も巧みに作られてゐる。常時、優れた土師部がこの附
近に居て、技巧を揮つたことゝ思ふ。而して常時は埴土を用ひて土器も多量に
製作した為め、必然的に、陶器を用ひる必要がなかつた。否、陶器製作と絶縁
してゐたのであらう。埴輪の種類は円筒、武装男子、武装馬、靭、女子土偶等
であるが土偶には冠物、被服の特殊なのが多い。円筒も直径一尺二寸余の大形
のもの、及び口部の開いた不二山円筒に類似せるものも出土してゐる。前述の
五鈴鏡は山の北部の小古墳より出土したと云ふが、大正十年頃の発掘の為め詳
細を村の人は忘れてゐて判明しない。郡内唯一の鈴鏡である故、出土墳の調査
の出来ぬのは遺憾である。この古墳群はある限定した時代のみに多数作られ、
特殊な古墳は混じつてゐない。而して武器類の出土を多く見る故武人の墳墓で
ないかと推定される。
K291サ『佐波の古蹟』(101805115)79〜83頁。原文縦書き。旧字体を常用漢字に直した。昭和初期の権現山古墳に対する考古学的認識がよく分かる。