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利根川の歴史 投稿者:鳩ポッポ観光 投稿日:2013/10/07(Mon) 19:33 No.1129
こんばんは。
最近は再び、昔々の利根川の流れに興味を持って、ちょっと取り組んでいます。
丸男さんのお花と樹木のお師匠、Kさんともかつて話題になったことがあり、いつかまた投稿させて頂きたいなと思っていた次第です。

以前、こちらの掲示板でも何回かお話させて頂きましたが、例えば、戦国時代に遡れば・・・利根川は現在の広瀬川辺りを本流としており、
その後、徐々に現在の流れに移動していったことは、皆さんもご存知のことでしょう。
伊勢崎藩家老の関重嶷(せき しげたか)が著した『伊勢崎風土記 』には、伊勢崎地方の物産としては、「鮭(さけ)、利根川及び比利根川(現在の広瀬川)に出ず、
葱(ねぎ)、下植木村に出ずるもの最も美味なり。」と記され、伊勢崎に活きのいい多くの鮭が遡上していた様子をうかがえます。
最近でも、秋になると鮭遡上のニュースが多く聞かれるようになり、伊勢崎市の川も綺麗な川に戻りつつあるのが嬉しいです☆

夕食ということなので、このつづきはまた・・・
Re: 利根川の歴史 - 鳩ポッポ観光 2013/10/07(Mon) 20:43 No.1130
以前にも紹介させて頂いたかもしれませんが、ネットで「治水地形分類図」といった主に昭和初期の測量により制作された地図を見つけました。
こちらから、ぜにご覧になってください。http://www1.gsi.go.jp/geowww/themap/view/mapview.php?type=lcmfc&dis=kantou1&name=isesaki&size=100&rc=11&xy=21

この地図では、現在の広瀬川の流れより西側の地域、すなわち連取町、連取本町辺りを中心に田中町、新栄町に至る地域の、所々に青い横線のベルト地帯「旧河道、旧落堀」が見られ、
これらはかつての利根川が流れた痕跡だと思われます。
ちなみに、現在の広瀬川の流れより西側の地域は、伊勢崎清明高校〜美茂呂町の退魔寺に至る際立った崖に見られるように、西側の方が市街地よりも数メートル低く、地学的には広瀬川低地帯と呼ばれています。

また、この地図の下にある「下へ移動」をクリックして伊勢崎南部をご覧ください。
こちらでは、現在の五料橋付近から分かれて存在した、利根川の現在の流れより北を流れていた「もう一つの流れ」をありありと確認できます。
この流れはかつて「七分川」と呼ばれていました。
一方、現在の流れは分流地点で三分の水量が流れたので、「三分川」と呼ばれてました。

五料橋付近から分かれた「七分川」は、現在の日本CMK、まるか食品の辺りを蛇行しながら南下し、上武大キャンパスを通過し
富塚町の交差点辺りから東へ横移動するようになり、坂東小あたりで二手に分かれ、一方は市民プラザ(南に現在も七分川の名残り「七分川公園」がある)
もう一方はパーネデリシアのパン屋さん辺りを通っているように見えます。
二つの流れは、八斗島工業団地の恐らくサンデン辺りでまた合流し、工業団地の北部を横断し飯島町辺りから、現在の韮川の流れとダブってきます。
国領町で、まゆドーム辺りから流れてきた別の支流と、南からの支流(恐らく三分川)とも合流して、島村方面に向かってます。当時は島村で烏川とも合流してました。

またまた、この辺りの地名をよく考えてみると、七分川と三分川にはさまれた「八斗島、福島、飯島」は文字通りの「島」となり、
流れのない所は自然堤防や小さな丘陵(塚)ができ、そこに人が住んで「富塚、戸谷塚、馬見塚」となったようです。
もちろん、水に関する地名としても、沼地が多かったであろう「長沼」、現在の上蓮、下蓮町は、かつては上蓮沼、下蓮沼という地名ということもありました。
子供の頃に見た伊勢崎市の地図は、南部のこの地域に、たくさんの沼地や湿地?が残っていたような気がしますが、現在はすっかり埋め立てられてしまったのでしょうか・・・


七分川の最期 - 鳩ポッポ観光 2013/10/07(Mon) 22:14 No.1131
七分川は、天明3年(1783年)の浅間山大噴火によってもたらされた大泥流によって、河口がふさがれ、その流れもすべて埋没してしまったようです。
それ以来は三分川がこの辺りの利根川の本流となり、現在に至ります。

七分川の流れていた地域には想像もつかない大泥流とともに、上流の吾妻川流域で暮らしていた多くの民の遺骸が流れつきました。
火砕流により家もろとも川に押し出され、高熱の泥流に加え酷暑の夏のことであったため、遺骸はほとんど腐乱して、利根川が浅瀬となる五料、柴町、戸谷塚のあちこちに打ち上げられたそうです。

その遺骸を集めて供養したという場所が、旧ヒタチヤ(現在のカワチ薬局)を西に入った、戸谷塚観音堂(写真)として今も残ってます。


Re: 利根川の歴史 - 丸男 2013/10/08(Tue) 19:11 No.1132
鳩ポッポ観光さん、暴れん坊・利根川と、その流れに応じた地名の由来・・・良く調べましたね〜(@_@)。

七分川と三分川に挟まれた「八斗島、福島、飯島」の「島」の由来、
流れのない所は小さな塚)ができ、「富塚、戸谷塚、馬見塚」などの「塚」、
沼地が多かったであろう「長沼」、現在の上蓮、下蓮町は、かつては上蓮沼、下蓮沼という地名
また現在も名を残す「七分川公園」、
実に興味深いです(ー_ー)。

戸谷塚と吾妻川上流のある地域とは、浅間噴火の縁でまだ交流が続いている話を聞いた記憶があります。


Re: 利根川の歴史 - 鳩ポッポ観光 2013/10/08(Tue) 20:28 No.1133
丸男さん、お返事感謝致します!
こちらの掲示板にも、昔のことに興味を持ってくださる人たちがいらして嬉しいです。
戸谷塚と吾妻川上流域の人々の交流が、現代も続いていること・・・大震災の被災者と助けに駆けつけた人々の絆を見るようで心温まる思いです。

上蓮沼、下蓮沼にかつて実際に沼があった記録は、残念ながら今のところ見出せませんが、長沼町に七分川が流れていた辺りには、明治初期の古い地図で沼らしきが確認できるとのことです。

鳩ポッポ観光としても今までに、七分川の流れの痕跡を探すフィールドワークを試みてきました。
坂東小の北、100メートル位の所に小さな川が流れてますが、そこにはかつて3メートルほどの段差があって、坂東小自体も70年代までは葦の生える沼地であったそうです。

戸谷塚町では、七分川の流れのあった辺りに、貯水沼や小さな池が見られます。
36.283692,139.178233 こちらの地点をやっかいでも、またグーグルマップにコピー&ペーストして読み込ませ、その地点にペグマン(黄色い人形)を立たせてぜひ360度、見回してみてください。
(グーグルマップはこちらです。https://maps.google.co.jp/maps)


これが七分川の跡だ! - 鳩ポッポ観光 2013/10/08(Tue) 21:12 No.1134
昨日、紹介させて頂いた「治水地形分類図」http://www1.gsi.go.jp/geowww/themap/view/mapview.php?type=lcmfc&dis=kantou1&name=isesaki&size=100&rc=22&xy=01
をもう少しよく見ると・・・
地図中の「上蓮町」と表記されている所に、、現在の「まゆドーム」のある子供のもり公園辺りから始まり、南に下って飯島町に流れていた
七分川の支流とも言える旧河道があることがはっきり確認できます。
子供のもり公園は「保泉」と表記された下の広瀬川と、その南を走る現在の354号線の間の辺りだと思います。
(ちなみに、現在は子供のもり公園入口の西に郵便局がありますが、こちらの地図の時代は更に西方に郵便局のマークが見られます。)
そういえば、子供のもり公園内にはビオトープや小さな湿地帯が設けられているのは、七分川の名残りか或いは偶然なのでしょうか?

子供のもり公園入口のある国道354号線の道路沿いから南方向を見渡すと、目の前の広い水田が、その七分川支流の河道跡と私は見ています。
また、公園の第2駐車場やその奥に民家のある水田の東側の地帯は、水田よりも一段土地が高くなっており、その地形はゆるやかな弧を描いて、そのまま南東方向に続いています。

「治水地形分類図」の「飯島町」と表記されている「町」の字付近の流路左岸になると、その段差は著しく目立っきます。これが七分川の跡です。
36.267464,139.226805 こちらの地点をまたまた、グーグルマップで是非ご覧になってください。これは一見の価値があります!
県道295号線の道路から見て、西側の、田んぼと〜畑や宅地の境界線に段差が際立っています。

この場所は以前、下蓮町のご出身で現在は東京都にお住まいの方のブログ「トクチャンのブログ」で知りました。http://ameblo.jp/tokuchan2001/day-20110814.html
この段差は現地に立って見渡すと、更に醍醐味が出てきます。
自転車やお車なら、さきほどの子供のもり公園から354号線を南東に進み、下蓮町の交差点をそのまま直進して300メートル位走ると道路がゆるやかな下り坂になっていたように思います。
道路沿いの民家が途切れ、左右の風景が田んぼになった所です。
これはあきらかに七分川の残した段差に間違いないでしょう。


Re: 利根川の歴史 - 丸男 2013/10/09(Wed) 08:22 No.1135
鳩ポッポ観光さん、またまた詳しく調べましたね。

ところで、浅間山噴火と戸谷塚地区の交流とのことですが・・・

「世界災害語り継ぎネットワーク TeLL-Net」に関 俊明さんと言う方が
「嬬恋村鎌原地区と泥流被害地の取り組み −天明三年(1783)浅間山噴火災害−」
と言うパワポ原稿を寄稿していて、その中の20ページに

「6 伊勢崎市戸谷塚地区・「夜泣き地蔵」「先祖が世話になった。」」

として、戸谷塚地区との交流が記されています。同26ページにも130回忌のことに簡単に触れています。
URLはこちらですが、ファイルサイズは大きいので、ブロードバンド接続(光回線など)でない方は要注意
http://tell-net.jp/portal/download/seki_jp.pdf


下蓮沼集落の南を流れていた利根川 - 鳩ぽっぽ 2013/12/25(Wed) 22:12 No.1162
丸男さん、和@さん、こんばんは。
先日は広瀬川の旧河道を確認した後、かつて下蓮沼村集落の南を流れていた利根川の本流「七分川」の残した段差を撮影してきました。
写真は道路から見た左岸の段差で、数十メートル南側には右岸らしき段差もはっきり残ってました。
この段差はスケールも大きく醍醐味がありますから、ぜひ現地に立って見渡して利根川旧河道「七分川」のスケールを体感してみてください!
段差の見られる所は何箇所もありますが、写真を撮った場所は忠治茶屋前の354号線を南東に直進し、下蓮町の交差点を曲がらないでそのまま直進して400メートル位走ると、道路がゆるやかな右カーブの下り坂になり、道路沿いの民家が途切れ左右の風景が田んぼになった所です。


Re: 利根川の歴史 - 丸男 2013/12/27(Fri) 08:12 No.1163
鳩ぽっぽ さん、おはようございます。
鳩ぽっぽ さんが確認した古利根の段差、明治初期の地図「迅速地図」にしっかりと表現されていました。
現在の韮川がややその位置を流れているんですね。

去年の今頃、その場所付近から韮川堤防上の未舗装道を無理やりサイクリングして島村の「北向」まで行ったことがありましたが、
その日は事前知識がなかったので段差には気付きませんでしたが、
うろ覚えながら、韮川から利根川の堤防にかけての土地は全体的に窪地になっていたように思います。

いつか改めてまたあの辺をぶらりサイクリングしてみます。


Re: 利根川の歴史 - にわかTT 2013/12/28(Sat) 09:34 No.1164
鳩ぽっぽさん、丸男さんこんにちは。
丸男さんの利根川周辺の古地図への書き込みですが、1947年の航空写真で結構分かりますね。
古い利根川の流れはそのまま水田となってプロフィールを保っています。
現在の航空写真と比べても、1947年頃のほうがくっきりしているのではないでしょうか。
それ以外でも河川の暴れていた跡がそのまま田圃になっているのが分かって面白いです。

あちこちのスレに航空写真を貼り逃げして恐縮ですが国土変遷写真ネタはひとまずお終いにします。
お付き合いいただいてありがとうございました。


Re: 利根川の歴史 - 丸男 2013/12/28(Sat) 17:33 No.1165
にわかTT さん、古利根の流れ、ホント、1947年の航空写真には
モロそのままの形で残っているんですね(@_@)/。
今回の右赤城であれこれ調べるまでは、実は古利根が上蓮町のすぐ南まで流れていたこと、知らなかったんです。
半世紀と少し前の地元のことなのに、知らないことが多くて、サイト運営しながら勉強中です。

航空写真ネタ、また何かに絡めて、ドシドシ投稿してください。


Re: 利根川の歴史 - 鳩ぽっぽ 2013/12/29(Sun) 19:39 No.1166
にわかTT さん、丸男さん、1947年の航空写真、またまたナイスですね! 
古地図や治水地形分類図(http://www1.gsi.go.jp/geowww/themap/view/mapview.php?type=lcmfc&dis=kantou1&name=isesaki&size=100&rc=22&xy=10)にある利根川旧河道がそっくりそのまんま、モノクロームの画像に鮮やかに浮き出てますね。
旧河道がこれほど壮大なスケールで痕跡をとどめていたとは、まさに驚きでした!
トクちゃんという地元出身の方がブログで「(僕の住んでいた)集落や畑があるところは利根川の中州や自然堤防、そして集落や畑の周りに帯状に広がる田んぼが、かつて利根川が流れていた跡だそうです。」と、この辺りの地形のことを語られてますが、この航空写真を見れば一目瞭然ですね〜。
航空写真上部、右赤城のある位置より西の辺りに縦に連なる旧河道がありますが、先日そちらも写真に撮ってきましたので投稿させて頂きます。
こちらの旧河道跡は、現在のまゆドームのある子供のもり公園の南から端を発して旧上蓮沼辺りで本流と合流していたようです。
実際は、まゆドーム北を流れる広瀬川から、かつてこちらに流れていたのでしょう。
川幅も広く100メートル以上あります。広瀬川が利根川の本流であった時代もあったようなので、水が流れていたのはその頃かもしれませんね。
場所は、子供のもり公園入口から354号線の道路を渡った先にある第2駐車場の下なので、すぐにわかります。
第2駐車場から南に連なる集落のある所は、水田よりも一段土地が高い微高地になっており、その地形はゆるやかな弧を描いて南東方向に続いています。


Re: 利根川の歴史 - 丸男 2013/12/30(Mon) 10:08 No.1167
鳩ぽっぽ さん、おはようございます(^o^)。
鳩ぽっぽ さんご指摘のこの古い河川、
確か、鳩ぽっぽ さんが以前から話題にしていたと思いますが、
今回改めて気に留めてみたところ、広瀬川本流がこちらに流れていたようにも思えますね。
利根川との標高差も僅かなので、利根川からの逆流も入って来ていたのかとか、
いずれにしろ、改めて興味が湧きました(@_@)。

改めてその部分をクリッピングしてみました。


Re: 利根川の歴史 - 大学生 2015/04/21(Tue) 14:32 No.1242
鳩ぽっぽさん、丸男さん、こんにちは。戸谷塚町出身で現在は東京都に住んでいる
大学2年の者です。
小さな頃からこのあたりが大好きで、小学生のころからずっと歩き回っていました。
第四中学校出身だったこともあり、下蓮や国領町、長沼町のあたりもよくぶらぶらとしていました。
東京に来て戸谷塚を離れたからなのでしょうが、地元への愛着というものを最近強く感じています。
七分川公園についての由来は少し聞いたことがある程度だったのですが、お二人のおかげで理解することができました。
また、祖父から、「八斗島」という地名は八斗兵衛という人から由来しているのだと聞きました。
 大学の図書館でこの地域についての地理について詳しく調べようと思いましたが、もちろん東京にある学校なのでそのようなものはありませんでした(笑)
 もう一つ、昔利根川には荷物を運ぶロープのようなものが(八斗島町〜本庄間を繋いでいた?)あったとも聞きました。
詳しくご存じないでしょうか。



Re: 利根川の歴史 - 丸男 2015/04/22(Wed) 09:02 No.1243
大学生さん、こんにちは(^o^)。戸谷塚町のご出身でしたか。
子供の頃から、あの辺を歩きまわっていたこと、同じDNAを感じます(^^;)。
私は波志江町生まれですが、子供の頃から、自転車に乗って、付近をぶらぶらしてました。
粕川村(現前橋市)や新里村(現みどり市?あれ、桐生市だったかな?)辺りにも足を伸ばしていました。

私の友人の中には、同様な子供時代を過ごした人が数人います。
タモリがNHKで「ブラタモリ」なんて番組をやっていて、タモリとも気が合いそうです(ー_ー)。

八斗島町〜本庄間の利根川を荷物運搬用のロープでつないでいたこと、私も聞いたことがあります。
ちょっと調べてみます。


「八斗島舟橋」 - 丸男 2015/04/22(Wed) 11:30 No.1244
ウェブにこちらのサイト(http://www.texte.co.jp/ch5.pdf)が見つかりました。
「日本近代浮橋」と言う論文です。
その中に「八斗島舟橋」の記述が随所にあり、
明治16年から昭和5年まで、架けられていたようです。
浮体木造船でサイズは9.98m×1.35m。船賃を徴収して運航していたようです。
橋とは言いながらも、舟だったようです。
想像ですが、ロープはそのガイド用だったでしょうか。


Re: 八斗島舟橋 - 大学生 2015/04/22(Wed) 14:40 No.1245
粕川や新里まで行くとは、私とはだいぶレベルが違いますね…
正直言ってすごいです。
 わざわざ論文まで出してくださりありがとうございます。読ませていただきました。
一体どこから見つけてきたのでしょうか(笑)
つまり、ロープにかご等を通して荷物を運ぶのではなく、船賃を徴収して船で運搬していた、ということでしょうか?
話は変わりますが、戸谷塚町(村)は江戸時代、江戸幕府の天領であり、隣の堀口町(当時は村?)
で犯罪を犯した者が伊勢崎藩からの追跡を免れるため、管轄の違いを理由に逃げてきていた、という話も祖父から聞きました。
高校時代に日本史を取っていた私にはその話の真偽はわかりませんが、確か管轄が異なっていても捜査が行える「関東見廻り組」←(正式名称は忘れてしまいました…)というのがあったはずですが…
私のひい爺さんが名和地区について研究をしていてその資料を読んだことがあるのですが忘れてしまいました。丸男さんは何かご存知でしょうか?


Re: 八斗島舟橋 - 鳩ぽっぽ 2015/04/22(Wed) 19:58 No.1246
大学生さん、丸男さん、「舟橋」の画像がありました。
(画像は「群馬風便り」さん http://www.geocities.jp/gunmakaze/column/11bandou_b.htmlからお借りしてます。)
この画像は「八斗島舟橋」の写真なのか?はっきりわかりませんが、坂東大橋の本庄側にある大きな説明板に出ているもののようです。
丸男さんがご紹介の論文によりますと、「八斗島舟橋」の架橋には明治政府の山縣 有朋、大河ドラマで大沢たかおさん演じる群馬県令・楫取 素彦が関わっていたんですね〜。

大学生さんが四中のご出身ということなので、ご存知かと思いますがこちらの素晴らしい!資料もご覧になってください。
http://www.isesaki-school.ed.jp/daiyonchu/h25/tonenokita/tonenokita_03.pdf#search='%E5%88%A9%E6%A0%B9%E5%B7%9D+%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%B4%8E%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1'
またまた「関東見廻り組」というのは、もしかして、国定忠治も捕まった泣く子も黙る!「関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)」でしょうか?
時代劇なんかでは「八州廻り」「八州さま」とか、呼ばれるようですね。


Re: 八斗島舟橋 - 大学生 2015/04/24(Fri) 00:38 No.1247
鳩ぽっぽさん、こんばんは。
2つのURL、拝見させていただきました。
1つ目にはかなり詳しく書いてありますね!「舟橋」について想像がうまくできなかったので
大変わかりやすくて良かったです。
 橋を架けるに当たってかつて私が日本史で学んできた偉人が関わったと知って大変驚愕しております。群馬県令の楫取 素彦に関しては先月あたりにlivedoor newsで「群馬県の県庁所在地を高崎にするはずだったのが仮庁舎を前橋に建設し、後に高崎に移転する約束をしたものの最終的には放置したために高崎市民からの評判はあまり良くない」という記事を見ました。

四中の社会科通信に関しては私は2011年度の卒業生(震災の日に卒業式でした)なので存じませんでした。ここまで伊勢崎南部の地区に関して詳しく記述したこの社会科通信は見たことがありませんでした!ありがとうございます。
そうです。それです!大学受験は1年前なのに忘れるなんて恥ずかしい限りです…


Re: 利根川の歴史 - 丸男 2015/04/24(Fri) 11:10 No.1248
鳩ぽっぽ さん、「舟橋」の画像、良く見つけましたね(@_@)。
「八斗島舟橋」架橋に、今話題の群馬県令・楫取素彦や山縣有朋が関わっていたこと、歴史上の人が身近に感じました。
また、大学生さん紹介の高崎市民の楫取素彦に対する評判も興味をそそりました。
そんな裏話の真偽を調べると、また歴史が面白くなりますね(^o^)。


Re: 群馬県令・楫取素彦 - 鳩ぽっぽ 2015/04/25(Sat) 21:54 No.1249
大学生さん、丸男さん、
楫取素彦について、高崎市民からの評判はあまり良くない・・・確かにネットでよく見かけますね〜!
そんな裏話の真偽をまたちょっと調べてみたのですが、それには色々と経緯があったようです。
明治4年の廃藩置県になって群馬県庁がまず高崎に置かれたものの、高崎城は兵部省(ひょうぶしょう、軍の機関)の管轄になったため、県庁は前橋城内に移動。
その後、明治6年に県令の河瀬さんが群馬県と入間県(川越を中心とした埼玉西部)の兼務をしていて大変なので、合併して熊谷県となり県庁は熊谷に。そして前橋は支庁になりましたが、また移動して高崎支庁に。
そして明治9年に熊谷県は群馬県と埼玉県に分割され、県庁は高崎ということになったそうです。その時、鶴の首の部分(東毛地区)も合体し、いよいよ「鶴舞う形の群馬県」が誕生します。
しかし、高崎城は軍の管轄なのでお寺を仮庁としたり分局を置いたりで、群馬県庁は高崎の町にあちこちバラバラだったようです。
またまた、県庁所在地ともなると高崎町民は欲が深いのか?物価や家賃は値上げするし、県庁敷地は時価の倍価格に引き上げたりしてしまったようで、時の県令、楫取素彦が「なんとか協力して頂けないだろうか!」と熱心に高崎町民に訴えても聞く耳がなかったようです。
一方、前橋は生糸生産の中心地。いい人材も揃っているということで・・・そんなこんなで、県庁は前橋に移動することになりました。
もしお時間ありましたら、群馬県での楫取さんの功績がこちらによくまとめられてます。
http://kousyou.cc/archives/8742

上記サイトで注目すべき点は、「行政の側から様々なインフラを整備して富岡製糸場を中心とした群馬県の蚕糸業を軌道に乗せることが楫取に課せられたミッションである。」とありますように、やはり楫取さんが今となっては世界遺産、富岡製糸場をサポートしていたことでしょう!
西南戦争で政府が財政難に陥り富岡製糸場の存続が困難になった時には、楫取さんの交渉で富岡製糸は閉場を免れることになった!ということも記載されてます。

ところで、楫取素彦は大河ドラマ「花燃ゆ」でもわかる通り、最初は小田村伊之助で吉田松陰の盟友で親戚ですね。
先日の「八斗島舟橋」の架橋では中央政府の山縣有朋、山田顕義らとともに、群馬県令として楫取さんが関わっていたわけだし。伊藤博文らが造った官営工場・富岡製糸場では、群馬県令が地元行政からのサポートで縁の下の力持ちといったところでしょうか。
・・・大学生さんも丸男さんもお気づきかと思いますが、ここで名前が上がっている人たちはすべて「松下村塾」関係者で「長州」であることです!!
幕末から情勢不安定であった群馬県も明治の初めは、長州の人々が関東出身の渋沢栄一 、尾高惇忠、宮崎有敬(伊勢崎藩伊与久出身・群馬県議会初代議長で楫取の厚い信任を得ていた)らと共に力合わせてリーダーシップを取って動かしていたのでしょう!
ちなみに、富岡製糸場にも長州出身の工女がけっこう多かったことも話に聞いてます。ただ普通の工女は、地方から歩いて富岡までやってきて下積みの繭の選別から覚えたわけですが、長州出身者はアメリカ郵船と人力車で富岡に到着して、最初から繰糸工女(そうしこうじょ)で特別待遇だったそうです。(ー_ー)
そういえば現在は名県令と言われる、最初の群馬県令・楫取素彦が、上毛かるたになく今までほとんど無名だったのも、長州出身(ある意味でよそ者)だったからでしょうか?


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