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無題 投稿者:トクチャン 投稿日:2014/02/11(Tue) 02:16 No.1205
すみません。投稿ばかりで。確かにわかTTさんでしたか、国土変遷アーカイブからの航空写真地図を投稿されていましたね。あの地図をよぉ〜く眺めていたら、なんと!上武士天神山古墳の墳形が分かるではありませんか!すごい!私が小学生の頃、上武士天神山古墳は八斗島工業団地造成のため、土砂を採取され消えてしまいました。本当に、残念の一言です。かつての天神山古墳は古墳の長さ127mの前方後円墳で、動物埴輪(犬形埴輪、馬形埴輪、鶏形埴輪、猪形埴輪)や人物埴輪、玉類などを出土しました。これらは東京国立博物館に所蔵され、展示されています。私は天神山古墳から出た犬や猪の埴輪を見に時々国立博物館へ行きます。これらは国の文化財に指定されているんですよ。聞くところによると、八斗島工業団地の造成地から埴輪の欠片がたくさん出たと聞いています。ジイチャンやバアチャンから、あの辺りには大小さまざまな古墳がたくさんあったと聞いています。子供の頃、オンタテヤマへ遊びに行くと、山の周辺でたくさんの埴輪の欠片を目にしました。畑の中にも転がっていました。いま古墳の復元などできませんが、何らかの資料館などがあるといいですねぇ。
すみません。場違いなコメントで。
残念、消えた上武士天神山古墳 - 丸男 2014/02/11(Tue) 10:46 No.1207
トクチャン、上武士天神山古墳が切り崩される前の姿をご存知なんですね(@_@)。
旧伊勢崎市で最大規模の前方後円墳は、安堀町のお富士山古墳、墳長=125mですが、
上武士天神山古墳はそれを上回る127m。もし残されていたら、伊勢崎市の貴重な歴史財産でしたね。
お富士山古墳も、JR両毛線で南西角の円墳部分が少し削られてしまいましたが、
それでも大部分が残されていて、古墳に登るとまだ前方後円墳の形が良く分かり、
桜や新緑の季節にはたまに寄ってみます。

旧市の南の方は、暴れ利根川や広瀬川の関係で、古墳は少なかったと勝手に思っていましたが、
武士天神山古墳が残っていれば・・・本当に惜しかったです(ノ_<;)。

赤堀地区や旧新里村、旧粕川村辺りに、赤城山麓の普通の小山がたくさんあるし、
あの辺を切り崩せば両者に都合が良かったのでしょうが、
八斗島工業団地から距離的に近いので狙われてしまったんでしょうね。つくづく残念です。


幻の上武士天神山古墳 - 鳩ぽっぽ 2014/02/12(Wed) 22:39 No.1210
丸男さん、トクチャン、上武士天神山古墳は本当に惜しいことをしましたね。
なるほど!古代人が通常、古墳を造らないはずの利根川低地帯エリアの八斗島から何故か埴輪の欠片がたくさん出てきたというのは、悲劇的にも工場団地の造成に天神山古墳を切り崩した土砂を使っていたからなんですね。
経済の高度成長時代の価値観は、現代とは大きく異なってましたね。
国土変遷アーカイブからの航空写真を改めて拝見しました。にわかTTさんすみません、お写真を拝借致します。
一昨年9月のトクチャンのブログで、上武士天神山古墳は「たてのやま(御嶽山)の北側にあった」といった記述がありましたので、古墳の大体の位置はわかりました。
左側の写真(1947年の方)の右上辺り、粕川の東に横向きになっている前方後円墳らしきを確認できますが、上武士天神山古墳はそれでしょうか?
航空写真では広瀬川と粕川の合流地点の上部が白くなっている(にわかTTさんがカスリン台風の影響か?と言われていた所)が最初に目に付きますが、そこにこんもりした木の茂みがあるのが御嶽山ですね。
前方後円墳があった場所は、現在の御嶽山・自然の森公園入口の駐車場から北に200〜300メートル位の距離で、老人ホーム・いこいの里よりはちょっと北の住宅地の辺りでしょうかね〜?
上武士天神山古墳(6世紀)がもし現存していれば、トクチャンと丸男さんが言われるように伊勢崎市最大規模の古墳で、出土した埴輪類も全国的なレベルで見ても非常に価値のある日本の代表的な埴輪になってますね。鶏の埴輪なら、群馬県立歴史博物館にも所蔵されているようです。
なんと言っても東京国立博物館所蔵の猪の埴輪は「簡略な表現で的確に猪の特徴を捉えた秀逸な造形である」と国立博物館での評価も高いですね。この猪は何体かの所蔵がある様子ですが、7〜8年前ちょっとしたハプニングがあったようで、それはよかったらこちらからご覧ください。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200611100336.html


古墳は何処に? - にわかTT 2014/02/13(Thu) 22:26 No.1211
トクちゃん、鳩ぽっぽさん、丸男さん、上武士天神山古墳は興味あります。
お富士山クラスの古墳がどこにあったのでしょうね。よろしければ教えてください。
犬や猪の埴輪が出ているということは古墳時代の中では比較的新しい古墳だったのでしょうか。
どうしても伊勢崎で古墳というと北側メイン(三郷、殖蓮地区)のような思い込みがありました。
昭和まで古墳が残っていたことを考えると利根川の暴れ方も思うほどではなかったのかもしれません。鳩ぽっぽさんが話題に出された「蛍行橋」では東山道を思い起こさせます。そのような街道があったとすれば脆弱な土地ではなかったのでしょうね。
1946年の上武士近辺の航空写真を貼っておきます。カスリン台風以前です。ここに天神山古墳は写っているのでしょうか?


Re: 無題 - トクチャン 2014/02/13(Thu) 22:36 No.1212
鳩ぽっぽさんへ

トクチャンです。赤い丸を付け所は能満寺だと思います。先ずオンタテヤマはお分かりですので、オンタテヤマの右上を見ていただくと、ヤシキ林のある民家がL字型に並んでいるのが分かりますか?民家はおそらく後円部に沿って並んでいると思われます。後円部から北に撥(バチ)がたに前方部が広がっているのが分かるかと思います。墳丘は畑になっていますが、周囲の畑の区画と明らかに違うのでお分かりいただけるかと思います。今年のお正月、数十年ぶりにオンタテヤマまで車で行きました。老人ホームへ行く道の手前に古墳があったことを示す、説明版が建てられていました。
どうですか?たぶんこれが天神山古墳だと思うのですが・・・


Re: 無題 - トクチャン 2014/02/13(Thu) 22:55 No.1213
付け加えます。上武士は利根川乱流地帯より土地が高く台地状になっています。
上武士を中心にかなりの古墳があったそうですよ。剛志小学校には学区内の古墳からの出土品が展示してありました。そして上武士から北東に行くと上渕名があり、ここも相当な数の古墳があったそうですよ。私の祖母は上渕名の出で子供の頃、ヤシキの中にあった「塚」(古墳)の話をよくしてくれました。上渕名には、確か太田県道を作る時だったでしょうか、大きな前方後円墳を壊してると思います。名前は・・双子山?二子山?雙子山?だったかなぁ??、すみません。調べれば出てくると思います。


古墳は何処に? - 鳩ぽっぽ 2014/02/14(Fri) 01:23 No.1214
トクチャン、にわかTTさん、お返事ありがとうございます。
1946年の上武士近辺の航空写真、壮大な眺めですね! 広瀬川のかつての蛇行した流れもはっきりわかる貴重な写真ですね。特に現在の繭ドーム付近で、流れが北に向けて蛇行する様は写真で初めて見ました!
伊勢崎市の地形は大きく分けて、広瀬川の左岸が伊勢崎台地で遺跡や古墳はその台地上に多く見られ、広瀬川の右岸から利根川にかけては広瀬川低地帯と呼ばれ、暴れ川利根川が文字通り暴れまくった地帯ですね。他に赤城山斜面台地、大間々扇状地もかかってます。

一方、古墳は何処に?幻の上武士天神山古墳の位置ですが、トクチャン、航空写真で今度は右側の1960年版の方に青い印を付けてみたのですが上武士天神山古墳はこれでしょうか?
なんと!古墳跡の説明版が建てられていたということで、説明版を先程グーグルマップでこの付近を探し周ってみたのですが、なかなか見つかりませんでした。それだけに当古墳はベールに包まれていておもしろいです。
上武士天神山古墳(剛志村30号墳)は現在の御嶽山に連なる台地上に築造された、墳長127.3m、後円径61m・高さ5.5m、前方幅約80mの前方後円墳で6世紀のものとされているようです。
保存状況はトクチャンが言われたように、1966年の調査以前に墳丘大半は消滅していたということでした。
ちなみに現在の御嶽山・自然の森公園内にも墳長32.5mの「剛志50号噴」、墳長45.5mの「御嶽山古墳」いずれも前方後円墳があったようなので、上武士天神山古墳と同グループでこの辺りもちょっとした古墳群になっていたのでしょう。
古墳のお話を少しさせて頂きます。群馬県内で最も古い前方後円墳が4世紀の前橋天神山古墳。
5世紀になると全長210mの東日本最大と言われる太田天神山古墳が登場しますね。また同時期に我らがお富士山古墳、赤堀茶臼山古墳が築造され、5世紀は太田エリアの有力豪族のイニシアチブのもと地域連合体が成立していた模様で、その上毛野国(かみつけのくに)の大グループは畿内の大和政権とも深いパートナーシップが取られていたとかよく言われますね。
その証拠となるのが、棺である「長持型石棺(ながもちがたせっかん)」で、この長持型石棺は畿内の大型古墳を中心に採用されており、関東では太田天神山古墳と伊勢崎のお富士古墳だけから出土したというからスゴイです!!
上武士天神山古墳が築造された6世紀になると古墳時代も末期で、墳丘上の人物、動物埴輪はバラエティー豊かになり、副葬品の内容も極めてゴージャスになったようですね。
上武士天神山古墳では猪、鶏、犬の埴輪も出土しており、犬が猪を追いかけるといったユニークな狩猟風景が古墳上で再現されていたと考えられているそうです。
6世紀後半は上毛野国では榛名山の大爆発があり大量の軽石を降らせたそうです。その軽石(安山岩)を石室に用いた古墳が榛名山の麓に多く見られ伊勢崎にまで及んでいたそうです。
県内で6世紀の代表的な古墳は群馬の森の北にある観音山古墳で、歴史博物館に石室内部が復元されていたように思います。
きっと上武士天神山古墳にも、それと似たような石室があったのではないかと想像してます。


上武士天神山古墳位置特定 - 丸男 2014/02/14(Fri) 13:28 No.1215
トクちゃん、鳩ぽっぽさん、にわかTTさん、みなさん、こんにちは(^o^)
上武士天神山古墳のことがどうも気になって、昨日はオリンピックの夜更かしだけじゃなく、寝付きが悪かったです(^^;)

トクちゃんのコメントを参考にし、茂呂に住む義兄にも聞いたり、
今朝はKさんからも電話をいただき、是非場所を特定してくださいと期待されたり
「境イキイキあい」の皆さんが標識を設置して(多分、トクちゃんが言う標識)、
私も標識は何度か見ているのですが、現状は畑ばかりで特定できず、
とにかく、位置不明でした。

そこで・・・
にわかTTさんが以前アップした1947年10月の航空写真を今朝ほど私も地理院サイトから表示し
高解像度画像をDLし、距離スケールを作成したり、現況図と位置合わせしたりするなど、
睨めっこすること3時間(仕事をほっぽって(^^;))。

そして到達したのがこの場所です。
前方後円墳の形がほぼ残っています(そう言う先入観で見たせいかな?)。
トクちゃん、多分これではないでしょうか?


天神山 - トクチャン 2014/02/14(Fri) 14:45 No.1217
すみません。かれこれ50年以上前の小学生の時の記憶で、あいまいなところがありました。
きょう丸男さんが投稿してくださった地図で分かりましたが、最初に僕が能満寺だといったところですね。実際の能満寺はもっと北でした。すみません。この丸男さんの川を青く塗った地図で分かったことは、僕が小学生の夏休み、ブルトーザーで切り崩していた山がご指摘の山ですね。もう他界した親や祖父母の話しの記憶では、オンタテヤマから境西中学校まではずっと山が続いていて、西中は山を削て作ったと聞いたことがあります。オンタテヤマの隣にも山があったので、僕はずっとこの山が埴輪の出た山だと思っていました。僕が聞いた天神山の住所は上武士の小字で「宮前」だということです。この住所が重なれば適合かと思います。僕が見た標識はオンタテヤマの東側にあるグラウンドのところですが、このグラウンドのあたりにも当時はならされて畑になっていましたが、山がありました。ちょうど太田の鶴山古墳の状態ですね。古墳が全て畑になった状態です。ここが上武士、の小字で「宮前」かどうか、いま下蓮の80才になる叔父に確認の電話をしましたが、記憶があいまいでした。僕が最初の航空地図でここかなと思ったところです。畑の区割りから三味線のバチ状に開いた前方部かと思った場所です。もし、確定できるとすれば、「上毛古墳綜覧」か、境の篠木さんの書いた「境風土記」のどこかに書いてないでしょうかねぇ・・
僕が子供の頃、祖父母から天神山は「宝の山」だと言われてたが、やっぱりお宝が出てきたんだ。と言ってました。僕も調べたいのですが、現在東京在住ですから、記憶でしか書けません。すみません。上武士・小字「宮前」さえはっきりすれば、その山こそが天神山に間違いありません。


Re: 無題 - にわかTT 2014/02/14(Fri) 20:34 No.1219
トクチャン、早速お返事いただきありがとうございます。
ご回答の文面を自分なりの解釈で復元して見ました。読解力が「?」なので間違っていたらご指摘をお願いします。丸男さんの解釈と私の解釈も異なっていて面白いと思います。(自信無いです・・・)
配置した古墳はほぼ同一スケールのお富士山です。共に1947年の航空写真からです。丸男さん同様に時間をかけちゃいました。テヘペロ


天神山 No.1219 のコメントにに対して - トクチャン 2014/02/15(Sat) 00:47 No.1223
にわかTTさん、そうです。そうです。そのあたりですよ。お富士山よりも新しい6世紀の古墳だそうですから、丸男さんがご指摘された古墳のように、前方部がお富士山よりも発達した形だと思います。叔父も総合グランドのあたりの山じゃないかと言っていましたし、僕が子供の頃、オンタテヤマから東に山が見えたんですよ。山と言っても墳丘は開墾されて畑でした。ただ、後円部には木の生えたところもあったように思います。丸男さんご指摘の箇所も前方部が発達した後期の古墳に見えますよね。昔はこの辺りから剛志駅辺りまで、さらに下武士方面にかけて、大小さまざまな古墳があったと聞いています。墳丘が完全ではありませんが、何基か残ってると思います。ご協力いただき、ありがとうございます。この場所が上武士の「宮前」と呼ばれる場所ならば、にわかTTさんがお示しくださった地点に間違いないと思います。40数年前、境町のお菓子屋さん「しのぎ」のご主人が書いた境風土記に何らかの記述があるんじゃないかと思っています。僕は親が篠木さんからいただいた境風土記を引っ越す時に失ってしまいました。残念でなりません。



Re: 無題 - にわかTT 2014/02/15(Sat) 12:02 No.1228
トクチャン、返信ありがとうございます。
雪かきでヘロヘロです。まだクルマが家から出られません。今日は会社をあきらめましたが明日も外出できるかどうか分かりません。午後もカーポートの雪下ろしをします。未曾有の大雪です。
さて、ネットでチョロットしらべた程度では武士の天神山古墳は分かりませんね。
国学院大学の古墳時代の文献で「小字宮前」がヒットしたのでそこだけ貼り付けて置きます。これだと下武士になっています。かえってナゾが深まってしまった様です。


宮前について - トクチャン 2014/02/15(Sat) 12:53 No.1229
にわかTTさんNo.1228 の投稿について。
雪かきごくろうさまでした。知り合いの家のカーポートが潰れてしまったそうです。怪我にご注意ください。さて宮前ですが、いま注目している所が天神山古墳であるとすれば、天神山古墳は上武士と、下武士のムラ境にかかっていると思います。たぶん総合運動場はムラ境ではないですかね。
おそらく運動場あたりにあったと思いますから。すみません、すべておぼろげな記憶で間違いがあったらすみません。


天神山のあった宮前について - 鳩ぽっぽ 2014/02/15(Sat) 14:27 No.1230
今日は東武伊勢崎線も大雪による架線支障の影響で運転見合わせとなり、めずらしく私も休日となりました。
上武士天神山古墳は群馬県埋蔵文化財調査事業団や歴史博物館では「剛志天神山古墳」と呼ばれてました。周りの多くの小古墳も合わせ、総称して「剛志古墳群」と言うのでしょう。
遺跡ウォーカーといったサイトに、「伊勢崎市境上武士宮前 」に「武士1号墳(剛志村79号墳)」といった古墳がありましたが、発掘概要は「 集成、1980年、町教委が発掘。グランド造成により湮滅。」と出てました。
・・・ということは、現在の境総合運動場(グランド)のある場所は「宮前」ということなのでしょう。
丸男さんが合成した航空写真を見ると、御嶽山と剛志小学校の間にこんなに広い雑木林があったんですね〜。
更に現在の地図とも比較してみましたが、雑木林の辺りは現在、境町民プールとすぐ北のグランドの一部になっているようです。仕事の関係で、こちらのグランドの駐車場はよく利用させて頂いてます。
雑木林と剛志小学校の間の畑が、現在の境西中学校になるのだと思います。
一方、雑木林と御嶽山の間にある集落(にわかTTさんが前方後円墳を合成した辺り)もきっと「宮前」と言ったのではないでしょうか?
「宮前、天神山、御嶽山」とくると、ここに古来から信仰の対象になる何かがあったことに違いないでしょう。
また、グランドとプールのある側が現在は上武士、東隣の境西中学校のある側から下武士になってますね。


Re: 無題 - トクチャン 2014/02/15(Sat) 15:47 No.1231
鳩ぽっぽさん No.1230へ
ありがとうございます。親や祖父母の話ではオンタテヤマから剛志小学校あたりまで、あの辺り一面がヤマ(雑木林)だったと聞いてます。ヤマと塚(古墳)だらけだったようです。戦前・戦中・戦後の食糧難の時代に次々と開墾され畑となっていったようです。僕が子供の頃、まだ数か所ですが切り崩されたヤマ=塚=古墳の一部が残っていました。オンタテヤマから東、グランドの方角のすぐ隣にヤマがあって、そのヤマの下に集落がありました。そのヤマから埴輪が出てきたと聞いていました。僕らは子供の頃、粕川の浅瀬を渡ってオンタテヤマへ遊びに行ってたので、あまり上武士集落までは行きませんでした。ただ、冒険した時だけ、西中隣のヤマへ行くことはありましたが、半分以上は削られて畑になっていましたね。叔父が子供の頃は西中ができる前のこのヤマから、崖下の広瀬川へ釣糸を垂れて釣りをしてたそうですが、周りはほとんどがヤマ(雑木林)だったと言ってます。そこに大小さまざまな古墳が群をなしていたようですね。
僕もまた都立図書館と国会図書館で調べてきますね。