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無題 投稿者:トクチャン 投稿日:2014/02/10(Mon) 20:41 No.1204
ちょっと付け加えますね。昔の裏宿の道は、豊東橋架設記念碑のあるお宅の南側の細い道を入っていきます。一軒過ぎると右側に土蔵があって、その左側は畑だと思いますが、畑の奥から子供の頃は昼間も薄暗い竹藪でした。裏宿の道は東へ行くと国道から曲がってきた例幣使街道へつながります。子供時分、裏宿の道沿いの家のヤシキの裏は、道に沿って竹藪になってて、そん中にでっけぇ木がうんとありました。裏宿の道が例幣使街道と合わさるとこあたりから、広瀬川は粕川と合わさるほうに流れを変えてました。昔、そのあたりに川の中まで枝をはりだした でっけぇ木があったそうです。広瀬が粕川へ円を描いて流れを変えてたとこいら辺を、昔は「タカノス」と言ってたそうです。
あっ!あと一つ、昔の豊東橋の手前から橋までは道が高くなってたそうです。昔は広瀬川を船が通ったんでしょうかね、橋は一段高くなっていたようです。あまりお役に立たない話ばかりですみません。

船便行き交う広瀬川 - 丸男 2014/02/11(Tue) 11:40 No.1208
トクチャン
豊東橋の架設記念碑、写真を撮った以降、判読作業がまだ進んでいなくて気になっているところですが、
>昔は広瀬川を船が通ったんでしょうかね
のコメントにちょっと参考になれば。
伊勢崎の名前の由来ともなった広瀬川の河岸が、今の三光町の新開橋下流の人道橋辺りにあったようで
武孫平さんの家の南東角に建つ石燈籠も、当時は河岸付近にあったようです。
この人道橋付近の左岸河岸から、広瀬川で運搬された荷物の荷役作業をしていたようです。
この先、広瀬川の上流のどの辺まで上ったかは分かりませんが、
少なくとも、上武士辺りはまだ途中だったんでしょうね。

今ではあちこちに堰が築造されているので無理でしょうが、
船便が行き交う光景、イメージだけでも見てみたいですね。


武孫平家角地に建つ石燈籠 - 丸男 2014/02/11(Tue) 11:49 No.1209
これは、武孫平家角地に建つ石燈籠の説明板です。
写真や記事は
http://www.go-isesaki.com/isesaki_city_view.html#japanese
に掲載してあります。
広瀬川の昔の風景を河岸や渡しを中心に再現できれば楽しいですね。