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例幣使道と河川 投稿者:鳩ぽっぽ 投稿日:2014/01/30(Thu) 20:01 No.1198
丸男さん、講演会「日光例幣使道を生かしたまちづくり」、楽しみですね。
コンビニとのコラボで今、話題になっている忠治茶屋本店から至近距離にある例幣使道、右赤城。
以前、こちらの掲示板でも紹介させて頂きましたが、例幣使道がわざわざ遠回りしている右赤城の所で、今日は街道の内側にある「湾曲線」の写真を撮ってきました。
この湾曲線は最初、丸男さんが航空写真から発見したもので、地元下蓮町ご出身のトクチャン紹介の幕末の古地図で表示されている「水除堤」(「みずよけつつみ」と読むのでしょうか)といったラインと重なり、古老の話ではここに広瀬川の土手があったそうです。
現在の湾曲線は写真のような畑と砂利道になってますが、この湾曲線が付近を流れていた旧広瀬川河道の流れに則した綺麗な曲線ラインを描いていること、またトクチャンが言われるにはこれは古地図にある「水除堤」の痕跡だということから、街道が遠回りした右赤城を説明付けるにも価値ある痕跡になっているものと思われます。
一方、写真の奥の方に見えるお屋敷森のある所は西方から連なる別の段差が残っており、更に古い川が残した自然堤防と思われます。トクチャンが子供だった頃はもっと高い段差だったようです。

添付:1198.jpg (172KB)
Re: 例幣使道と河川 - 鳩ぽっぽ 2014/01/30(Thu) 21:00 No.1199
さきほどの湾曲線「水除堤跡」の先は、すぐに国道354線を横切り旧広瀬川河道と合流するような形になってます。
今日初めて気づいたのですが、そのすぐ近くに丸男さんが言われていた「豊東橋架設記念碑」があったんですね〜。碑はてっきり現在の豊東橋の袂にあるものと思ってました。^ ^;
写真は碑のある国道沿いから、旧広瀬川河道方面を見たものです。まず右側の垣根を背景に碑があり、「止まれ」の奥、桜の木のある広場の辺りが1947年頃までは広瀬川が流れていた河道跡。
広場のフェンスに沿って更に奥に進む道路の辺りが、かつての豊東橋だったようです。
以前、にわかTTさんが紹介されていた1947年撮影のモノクロームの航空写真を見ると、ここに橋が架かっているのがわかります。
碑には、「豊東橋架設記念碑、昭和十年六月竣工云々・・」とありました。


Re: 例幣使道と河川 - 丸男 2014/02/01(Sat) 10:20 No.1200
鳩ぽっぽ さん、旧豊東橋の位置、そうでしたね、
1947年撮影の航空写真で確認できるんでしたね。

あの記念碑、アップ画像は撮ってあるのですが判読作業が澄んでいなくて(^^;)
橋の位置を根拠に、旧広瀬川の蛇行の確認もできますね。


Re: 例幣使道と河川 - 鳩ぽっぽ 2014/02/02(Sun) 22:40 No.1201
丸男さん、お返事ありがとうございます。
今日は例幣使道の名所の中でも街道から外れているために、よほど通でないと知らないマニアックなスポットを紹介させて頂きます。
ここは下蓮町と国領町の境目にある「蛍行橋(けいこうばし)伝説の地」という所で、かつての「七分川」と「古い利根川」が合流していた地点と思われます。
写真の向かって右側にある段差が七分川の痕跡です。
トクチャンが子供だった頃はここに沼があり、古い絵図にも蛍行橋が記載されてます。
例幣使道まちづくり会議さんの風情ある看板には、平安時代に藤原実方という歌人が宮中でトラブルを起こし天皇の命で陸奥守に左遷され、実方の一行が国領村を差しかかった時、
河畔に飛びかう蛍を見て失意の心に光明が差し、思わず筆をとり「蛍行く野中の小橋いまさらに 左遷人(さすらいびと)の道しるべとは」と詠じて村人に与えた。
実方の思いを感じた村人たちはその橋を蛍行橋と呼び、この話が都に伝わり、江戸時代になって例幣使もここに寄り道したようなことが書かれてます。


Re: 例幣使道と河川 - 鳩ぽっぽ 2014/02/02(Sun) 22:56 No.1202
「蛍行橋(けいこうばし)伝説の地」のある七分川と古い利根川が合流していた地点には、現在は韮川が流れてます。
写真奥の橋から左に下った辺りが「蛍行橋(けいこうばし)伝説の地」
明治時代にはここに利根川が流れていたようで、写真の右側(韮川右岸)にある工場の建物がある辺りまで川幅があったのではないかと思います。
明治の迅速地図をもとに丸男さんが合成した地図や、1947年のモノクロームの航空写真をみるとそれがよくわかります。
現在、韮川より南側の地帯は南部工業団地になっており、古い利根川の痕跡を見つけるのも困難になってます。