境風土記や天神山古墳 投稿者:丸男 投稿日:2014/02/16(Sun) 09:32 No.1251 いくつかのスレッドに共通でしたので、新しいスレッドで紹介します。 トクちゃんの掲示板の記事に何回か登場した「境風土記」ですが、 5年前に、私が信頼し期待している境町のある市議さんからお借りしまして (市議さんも境図書館から借りておいてくれたようです) 手元に置きたかったので、コピーさせていただきました。 (Amazonやヤフオクでも、本の入手は難しいです(><)。) この境風土記では各地区別に歴史が書かれていまして、 64ページ以降に上淵名(今回話題の淵名神社近くの太田県道で二分されてしまった前方後円墳など) 89ページ以降に上武士(同じく天神山古墳など) を始め、多数の古墳があったことや、発掘の経緯などが記されています。 詳述ではないのですが、他の文献や組織を調べるには十分なヒントが書かれています。 それと手持ちの本「図説・はにわの本」には、天神山古墳(この本では「剛志天神山古墳」と紹介) で出土した犬、猪、鶏の写真なども載っています。 追って、それらについても紹介したいと思います。 ・・・それと、 ここまで皆さんにたくさんの関心や情報をお寄せいただくと、 天神山古墳のページを制作してとりまとめなくっちゃ駄目かな・・・なんて思っています。 境風土記の天神山古墳の記述 - 丸男 2014/02/18(Tue) 21:38 No.1255
天神山古墳の個別ページ作成はまだ未着手ですが、 取り敢えず、境風土記の天神山古墳の記述部分です。 場所を特定できる記述はありませんが、概要や遺跡調査の経緯などが分かります。 境風土記に記述された淵名神社の古墳 - 丸男 2014/02/18(Tue) 21:41 No.1256 それと、同じく境風土記の淵名神社の古墳(雙児山古墳跡)の記述です。 こちらも場所を特定できる記述はありませんが、 遺跡調査時代のざっとの経緯が分かります。 Re: 境風土記や天神山古墳 - トクチャン 2014/02/19(Wed) 14:50 No.1257 境風土記の上武士天神山古墳の記述部分の掲載、ありがとうございます。この本は出版された時、著者の篠木さんからいただきましたが、引っ越しの時に失い、いまだに残念でなりません。さて、記述の中で思い出したことがあります。天神山を含む三古墳とありますよね、子供の頃、オンタテヤマに行くと、オンタテヤマの東、北東あたりにかけて、山がありました。全て畑になってた山と、オンタテヤマのすぐ東側の山には木が生えてたと記憶してます。またオンタテヤマの北側は現在芝生になっていますが、子供の頃は畑で、畑の中には土器や埴輪の欠片がゴロゴロしてました。 子供の頃、夏場はいつも粕川で水浴びをしていました。広瀬との合流点から二番目の瀬のあたりで遊んでました。この山々が切り崩されるとき、粕川の二番目の瀬のあたりからオンタテヤマの北、東、のあたりの山を重機で切り崩す様子が見えました。毎日、ここから八斗島までダンプカーがひっきりなしに土を運ぶため、切り崩す現場には近づくことができませんでした。オンタテヤマから今の運動場のあたりにかけてずっと山がありましたね。オンタテヤマの北側から東側にかけては今よりも盛り上がったところばかりでした。なので当初、オンタテヤマのすぐ東側の山が天神山かと思っていました。天神山以外にも名前が付けられていたと思いますが、いまでも残ってるオンタテヤマ東側の民家に住んでる、私の年代(57才)から80才前後の方たちならご存知ではと思います。篠木さんの書かれた境風土記の記述を読んで、記憶が少しだけよみがえってきました。 Re: 境風土記や天神山古墳 - トクチャン 2014/02/19(Wed) 23:20 No.1259 実は、地元の品川区立図書館で読んだ本を思い出しました。その本は「はにわ屋高田儀三郎聴聞帳」というタイトルで、ちょっと考古学の裏を垣間見ることができます。この中に天神山古墳周辺で発掘された埴輪の写真が載っています。先日図書館へ行くと・・見つからず、きょうアマゾンで見つけ、注文しました。それから天神山の場所ですが、天神山は個人の所有でしたから伊勢崎市など、官庁が持っている公図などに記載されていないでしょうか?先日来、地元へ連絡を取っておりますが、私が航空写真地図でここではないかと目星をつけているところに、やはり地元の高齢者からもそのあたりではなかったかと情報が寄せられました。私の眼には、昔の航空地図の中に畑にはなっていますが、前方部が確認できる箇所があります。それと、子供の頃に見た、粕川で水浴びをしていた場所から見上げた場所とその古墳前方部が重なるような気がしてます。私も伊勢崎市など公官庁が持っている、土地台帳などの公図を探してみますね。今まで書いてきた場所については、私の記憶で推測の域を出ません。ですから、そうしたものがあれば解明できると思います。 Re: 境風土記や天神山古墳 - 鳩ぽっぽ 2014/02/20(Thu) 01:06 No.1260 丸男さん、トクチャン、「境風土記」の記述 を拝見しました。 この記述や皆さんのコメントから、昭和41年、宮前(現在のグランド付近)で三つの古墳が発掘調査され、その直後に古墳の土は八斗島に運ばれてしまったようですね。 私がこの篠木先生の記述でおもしろいなと思ったのは、「天神山古墳は穂積親王陵ではないかと目された有力大規模なもの」といったくだりです。 まあ、こういった説はほとんど伝承伝説の域から言われていることが多かったり、また天神山古墳が造られたとされる6世紀後半と穂積親王の年代が合わなかったりすることもあるでしょうが、たとえわずかな可能性があっただけでも古代のロマンですね〜! 穂積親王(ほづみしんのう)はウィキなんかで見ると、「生年不詳 - 和銅8年7月27日(715年8月30日))は、奈良時代の皇族。天武天皇の第五皇子。官位は一品・知太政官事。」だというからスゴイです。 また、なんと!昔を語る・・・「群馬県にある多胡碑には和銅4年3月9日(711年)の日付とともに、「太政官二品穂積親王」と彼の名が刻まれている。また彼を高松塚古墳の被葬者とする説もある。」ということで、確かに上毛野国にもゆかりのある人物でした。 またまた、剛志天神山古墳のあった上武士の粕川を渡った隣の集落は「保泉」(ほづみ)。 この「保泉」という地名も、穂積親王(ほづみしんのう)に由来していることが解っています。 以前、Go!伊勢崎さんでも保泉にある勝山神社の記事で、由緒に記された穂積親王が紹介されましたね。 引用させて頂きますが、「勝山神社の起源は和銅年間(708〜715)、穂積親王の東征に遡るとのことで、その昔、この地を穂積と言い、天正18年(1590)に保泉村と改め、勝山神社が村社に列せられた」ということでした。 にわかTTさんが見つけた昔の航空写真では、蛇行した広瀬川が保泉にまで迫っているのがわかり、トクチャンのブログでも昔、勝山神社の南側には崖があったと書かれていたように思います。 広瀬川と言い、保泉という地名と言い、きっとここは「水」に縁の深い所だったのでしょう。 アマゾンにご注文された本も楽しみですね! |